仏法における平等とは、あらゆる生命体の如来蔵真如の心の体性が平等であることを指します。すべて衆生の真如如来蔵の体性は同一であり、差異なく、高低・大小・勝劣・強弱などの区別が存在しません。十方諸仏の真如の心とも平等無差別であり、その体性は清浄で、自ら汚れず、六塵に染まることがなく、善悪・是非・美醜・男女などの相を分け隔てることなく、一切の法を平等に顕現します。真如の体性は平等であるものの、現れる相の不平等を妨げるものではありません。これは衆生の業縁が異なり、業種が違うため、相も異なるからです。もし相まで平等を求めれば、それはかえって不平等となり、因果律に反することになります。平等心の真如心体は縁に依って不平等な幻相を顕現しますが、これこそが平等の中の平等、真実の平等であり、平等一如であります。一切の不平等な相は平等なる真如の理体そのものであり、平等無差別、一体不二であります。
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