初禅が現前したとき、外界がどのような境遇にあろうとも、他人がどのようにあなたに接しようとも、心の煩悩は現れません。時には悲しむこともありますが、それは表面のものであり、心の奥深くに入り込むことはできません。その時、心は金城鉄壁のごとく、外からは入らず、内からは出ず、外界の侮辱は心の内奥に真に触れることができず、心には保護膜のようなものが生じます。この境地を「煩悩が心を侵せず、心に煩悩が起きない」と言います。これが『阿含経』に説かれる「心が自在になり、心が解脱の境地を得る」という状態です。
この境地まで修行を進めると、自らは生々世々にわたって利益を受けます。それゆえ、二果以前の段階では、心は常に不自在であり解脱もしていません。なぜなら、貪・瞋・痴の煩悩と結びついているからです。心の解脱は、意根を主とします。意根に貪・瞋・痴が具わっているからこそ、六識が貪・瞋・痴の業行を造作するのです。意識はさらに解脱しており、前五識も解脱しています。眼は色を貪らず、五識は色・声・香・味・触を貪りません。第七識である意根は、我見を断じさえすれば、一分の解脱の功徳を受用できます。我執を断った後は、三界の世間法の束縛から完全に解脱し、自らを滅する能力を得ます。それが三果・四果の阿羅漢の境地であり、命終の時には三界から解脱する能力があります。真の心の解脱は四果であり、我慢が断尽され、五上分結が全て断たれ、自らが「後に有(う)を受けない」ことを自証できるのです。
2
+1