衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月16日    日曜日     第1開示 合計1102開示

心解脱の基準

初禅が現前したとき、外界がどのような境遇にあろうとも、他人がどのようにあなたに接しようとも、心の煩悩は現れません。時には悲しむこともありますが、それは表面のものであり、心の奥深くに入り込むことはできません。その時、心は金城鉄壁のごとく、外からは入らず、内からは出ず、外界の侮辱は心の内奥に真に触れることができず、心には保護膜のようなものが生じます。この境地を「煩悩が心を侵せず、心に煩悩が起きない」と言います。これが『阿含経』に説かれる「心が自在になり、心が解脱の境地を得る」という状態です。

この境地まで修行を進めると、自らは生々世々にわたって利益を受けます。それゆえ、二果以前の段階では、心は常に不自在であり解脱もしていません。なぜなら、貪・瞋・痴の煩悩と結びついているからです。心の解脱は、意根を主とします。意根に貪・瞋・痴が具わっているからこそ、六識が貪・瞋・痴の業行を造作するのです。意識はさらに解脱しており、前五識も解脱しています。眼は色を貪らず、五識は色・声・香・味・触を貪りません。第七識である意根は、我見を断じさえすれば、一分の解脱の功徳を受用できます。我執を断った後は、三界の世間法の束縛から完全に解脱し、自らを滅する能力を得ます。それが三果・四果の阿羅漢の境地であり、命終の時には三界から解脱する能力があります。真の心の解脱は四果であり、我慢が断尽され、五上分結が全て断たれ、自らが「後に有(う)を受けない」ことを自証できるのです。

——生如法師の開示
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意根が思考参究しているのかをどのように判断すればよいでしょうか

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心の解脱は意根を主とする

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