心の解脱は意根を主とし、意根が解脱しなければ、六識もまた解脱することができません。煩悩とは主に意根の煩悩を指し、意根に束縛があるため、六識は必然的に束縛を受けるのです。意根が我見を断つことにより初めて一分の解脱が始まり、第二果には二分の解脱、第三果には三分の解脱、第四果に至って完全なる解脱を達成し、仏地において究竟徹底した解脱に至ります。
意識は生滅を繰り返し、主体となることはできず、意識のみが解脱しても意味がありません。依然として意根という主人の制約を受け続けるのです。
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