ただ末那識が良いと知れば、それを行い、良くないと知れば行わない。しかし意識は善悪を知るが、末那識とは同期せず、末那識は意識の判断を顧みず、自らの観念に従って行動する。末那識は強固であり、良しと認めれば良しとして実行し、良くないと認めれば如何に優れていても行わない。これが末那識の慣性的習性作用である。
意識は如何にして末那識を教化し転換させるか。時に意識の力が強く末那識への制御力が大きければ、末那識を操作でき、末那識は意識の考えに従わざるを得ない。しかし束縛を脱する時は必ず来るため、常に従順ではいられない。故に意識は理をもって末那識を従わせねばならず、常に強制的手段を取ってはならない。理をもって末那識を説得する過程を、薫染教化あるいは教育改造と呼ぶ。
末那識が躊躇する時、その力は弱まり、意識の思考分析に耳を傾け、意識の意見に従う。これを理性的行為という。道理に悖ると知りつつ敢えて行うのは、末那識の非理性的行為である。意識の忠告に従うのは意識の理性が優勢な状態であり、明知犯行は末那識の無明習気が優勢な状態である。
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