衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年07月15日    日曜日     第1 回の開示 合計741回の開示

内相分の影像は外相分の本質境の変化に依って変化する

器世間も外器世間と内器世間に分けられます。外器世間は共業の衆生の如来蔵が共同で顕現したもので、全ての衆生が共に生活する場であり、全ての人々に共有されています。一方、衆生の六識が接触できるのは、自身の如来蔵が外器世間を基にさらに変現した内器世間であり、二重の顕現であって完全に影のような存在で、本質的な色体はありません。衆生が自心の内器世間を変化させるには、必ず外器世間に依って変化させねばならず、外器世間が変わらなければ内器世間を変えることはできません。

例えば私が大木を切り倒す場合、必ず外界の本質境にある大木が先に倒れ、その後が後脳の勝義根に伝達され、六識が認識するのは倒れた大木、あるいは徐々に倒れていく大木という内塵に属するものです。また建物を築く場合も、外界の建物が徐々に完成していくのに伴い、六識は次第に整っていく内相分の建物を認識します。あらゆる事例が、外相分が先に存在あるいは変化し、その後で内相分が続いて変化することを示しており、外相分なくして内相分は存在し得ません。

五根身そのものも四大によって成り立つ本質境です。実際には無情物であり、七転識が作用するための縁に過ぎず、如来蔵によって保持されています。七転識が起動して思念を造作する時、如来蔵はこの五陰身を用いて器世間を変化させます。器世間の本質境が変化すれば、内外の六塵相も全て変化します。医者が患者の病気を治せば、患者の色身は変化し、その色身は医者にとって外相分の本質境としての患者であり、医者の六識が認識するのは自身の勝義根内の患者像です。では医者が変化させたのは外相分の患者か、内相分の患者か。もし内相分だけを変化させたのであれば、患者本人の病気は治っておらず、必ず心外の患者本人の色身に変化が生じたはずです。変化が生じる場合、本人が先に変化するのか、自心の他者像が先に変化するのか。影像は外相分の本質境の変化から生じる影であるため、患者本人の色身が先に変化し、その後で影像が変化するのです。

五陰身と器世間の本質境には差異があり、一つは共業、もう一つは別業、一つは共同変造、もう一つは単独変造です。個人の色身の本質境は主に本人の如来蔵によって保持されますが、他の如来蔵もこの色身を変化させ得ます。他者を治療する行為は、自らの如来蔵が自身の色身を縁として、他者の色身の本質境を変化させることに当たります。外境を変化させる行為は業を造ることになり、因果を伴います。善業を造れば善果が、悪業を造れば悪果が生じ、他者の因果を変えれば自らが因果を受けることになります。定力の強い者が心中の他者影像を観想で殺害した場合、外界の当人は影響を受けるか。影響を受けるなら業果が生じ、これは意殺に属し、身口の殺害とは異なります。身による殺害は世間の法律で許されず、口と意による殺害は法律では裁けませんが、因果は必ず存在します。ただし自らを変化させ得るのは自らの如来蔵のみであり、第二の道はありません。他者が自らを変化させる場合も、自らの如来蔵を通じて行われるもので、結局は自らの如来蔵が自らを変化させるのです。

——生如法師の開示
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