生命の最も初期の段階においては、第八識と意根のみが存在し、一は真実、一は虚妄であり、真我と仮我が互いに干渉せず渾沌とした状態で存在していました。意根の無明による妄想が現状に満足せず、外に向かって求めるようになると、第八識は意根の求めに応じ、三界の世間が次第に形成されました。その後、五陰身が形成されるに至り、生死輪廻の現象が生じ、六識を通じて生死の苦楽を知覚し受けるようになったのです。
そもそも最も根本的な自我、最も原始的な自我、主体性を持つ自我とは意根であり、意識ではありません。意識は単に意根が縁に攀じる妄想の産物に過ぎず、意根が世界を探求し世間に執着するための道具にすぎません。意根はこれを自由に使い、必要なければ捨て去るのです。
ここから、五陰の世間における意根と意識の地位及び関係が明らかになります。意根の主導的立場は、意識が到底及ばないところです。すると我見を有する主体が誰であるか、我見の根源がどこにあるか、いかなる存在の我見を断ずべきか、そして如何にして我見を断ずるかが明瞭に理解できるでしょう。
何故大多数の衆生が意識にばかり注目するのでしょうか。それは意識が五陰の表面に浮かび、浅く観察し感知しやすいためです。意根は深く密やかに隠れ、その主導作用は極めて捉え難いものです。まさに主君たる存在が深奥に控え、簾中より政務を執るが如く、容易に人目に触れぬ道理。これは衆生が世俗界のみを見て真実の如来蔵を見ないことと同様の理です。
譬えば世間において、帝王のような尊い存在に、一定の福徳なき民衆が容易にお目通りできるでしょうか。常に見るのは帝王将相に仕える兵士や役人ばかりです。では役人兵士の善行悪行は誰に帰するべきか。全ては帝王将相の指令によるものです。同様に、五陰身の我見や邪見は誰の過ちか。全ては意根に帰する以外ありません。故に修行とは意根を教化し、意根を改め、意根の我見を断ずることが根本なのです。
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