技術に熟達し、余裕を持って対応できるのは、意根がどのような役割を果たしているのでしょうか。世俗的な法においては、一つの技術を習得するには理論と実践の両方が必要だと説かれます。仏法の観点から言えば、理論は意識による理解であり、実践こそが意根による実証です。技術の熟達は、絶え間ない実践によって意根を薫染した結果であり、さらに智慧の観照によって経験を総括し、意根の智慧を高め、心所を変化させることで初めて熟練が可能となるのです。
例えば自転車の乗り方を学ぶ際、乗車理論を完全に暗記したとしても、実際に乗れるわけではありません。自転車に乗り反復練習を重ねて初めて乗れるようになります。身体の動作は全て意根が如来蔵の協力の下で直接制御しており、練習の過程とは意識的思考を用いて意根を薫染する過程です。意根が繰り返し薫染されると、身体の操作が自然と滑らかになります。この段階に至れば、意識は全く自転車操作に集中しなくても、安定して乗りこなせるようになるのです。
意根が六識の操作を指揮し、その指揮が熟練すれば六識の操作も熟練します。意根がなぜ熟練した指揮をできるのか。ここから、意根に記憶機能がないということは絶対にあり得ないと分かります。もし意根に記憶がなければ、意識が何度繰り返し練習しても意根を薫染することはできず、意根は直ぐに忘れてしまいます。後世に因縁が具われば、ある技術を極めて短期間で習得できるようになるのは、まさに意根の記憶機能が作用しているからなのです。
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