衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月16日    日曜日     第4開示 合計1105開示

仏道を学ぶ者は外道の法を用いてもよいか

いわゆる外道法(げどうほう)とは、如来蔵(にょらいぞう)に属さない法(ほう)を指し、如来蔵の心(こころ)を離(はな)れて説(と)かれた法を外道法と言(い)います。多くの外道法は仏法(ぶっぽう)を学(まな)ぶ者(もの)にとって大(おお)きな役(やく)に立(た)つため、有用(ゆうよう)な外道法を排(はい)斥(せき)すべきではありません。医者(いしゃ)が患者(かんじゃ)を治療(ちりょう)するのも外道の方法(ほうほう)ですが、我々(われわれ)が外道の方法を離れて、如来蔵の法だけで一切(いっさい)の事(こと)を解決(かいけつ)できるでしょうか。明(あき)らかに不可能(ふかのう)です。外道が食事(しょくじ)をすれば我々も食(た)べ、外道が地球(ちきゅう)上(じょう)で生活(せいかつ)すれば我々も地球を離れられず、外道が空気(くうき)を呼吸(こきゅう)すれば我々も同(おな)じ空気を共(とも)に呼吸しています。我々は無始劫(むしこう)以来(いらい)、一度(いちど)も外道法から離れたことがなく、仏法を学んだ後(あと)でも外道と同(おな)じ法を修(しゅ)する必要(ひつよう)があります。外道は如来蔵の法と五蘊無我(ごうんむが)の法以外(いがい)のすべての法を有(ゆう)しており、我々もそれらを具(ぐ)足(そく)すべきです。例(たと)えば外道の出離心(しゅつりしん)や解脱心(げだつしん)、禅定(ぜんじょう)、および色身(しきしん)の問題(もんだい)を解決する様(さま)ざまな方法は、非常に学(がく)習(しゅう)に値(あたい)するものであり、我々に有用である限(かぎ)り活用(かつよう)すべきです。実(じつ)は全ての外道法は如来蔵の法であり、医者が患者を治療するのも如来蔵が治(なお)した病(やまい)であり、実質的(じっしつてき)には依然(いぜん)として如来蔵の法です。あらゆる人(ひと)と法は如来蔵から離脱(りだつ)できず、すべて如来蔵から生(う)まれ出(で)たものであり、本質的(ほんしつてき)にはすべて如来蔵なのです。

——生如法師の開示
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どのようにして意根が用功し、参究し、思量していることを知ることができるでしょうか

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如何にして情執を軽減し、自らの心の煩悩と苦しみから解脱するか

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