ただ意識のみが我見を断じ、意根は我見を断たず、意根は薫習を受けておらず、依然として凡夫の意根のままである。後世、胎内に入る際に意識は滅し、再び人として生を受ける時、意識も意根も我見を断っておらず、意根の現れは前世の凡夫と寸分違わないならば、前世に証果した功徳はどこに現れるのでしょうか。
実際には前世で真に証果し明心見性した者は、意根が薫習を受けたため、再び人として生まれる時、その心の行いは凡夫と決然たる違いがあります。前世における修行の期間が長ければ長いほど、その心の行いはより清浄となり、凡夫との差異はより大きくなります。仏法を学ぶ前は、意識は自分がなぜ他人と違うのかさえ知らず、人から愚か者と罵られた時、意識はまだ苦悩を感じていました。時には他人と同じように振る舞い、社会のリズムに合わせて貪瞋痴を起こそうとしても、意根がそれを望まないのです。
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