問:なぜ仏法を学び修行する者が皆解悟に留まるなら、真の仏法は次第に消失滅亡すると言われるのでしょうか。我々大多数は解悟の端にも触れていないのに、解悟するだけでも結構なことではないでしょうか。
答:例えを申し上げましょう。例えば皆が本を買って運転技術を学び、あるいは直接指導を受けて運転技術を理解したとします。全員が技術知識を習得し、自分は運転できると思い込みます。しかし実際に車を運転したこともなく、ハンドルを握ったこともありません。その後これらの人々が再び本を著し、他人に運転技術を教えます。そうなると、運転技術は後世に伝わるうちにどうなるでしょうか。この技術に実際の運用価値は残るでしょうか。そして将来、車を運転する者は現れるでしょうか。運転できる者は存在するでしょうか。このようにして、運転技術は失伝し、机上の空論となってしまうのではないでしょうか。
仏法も同様です。皆が解悟に留まり実証がなければ、次々と伝わるうちに、解悟する者さえ存在せず、解悟された仏法も形を変え、真の仏法は失伝してしまいます。これは仏が忍びず目にする状況であり、真の仏弟子にとっても非常に痛心すべき事態です。
領解と解悟には本質的な違いがあります。解悟は如来蔵の大まかな作用を推測するようなもので、現量観察によるものではなく、眼前の物を見るような明瞭さはありません。推測によるものは意根が未だ明らかでなく、心に確信がなく、容易に覆されます。これでは如来蔵の具体的な働きを観察できず、真実の大智慧を生じることはできません。一般的な理解は知識の学習と掌握に留まり、実際の思惟観行の段階には至っておらず、如来蔵の運行について全く了知しておらず、解悟の程度からも程遠く、証悟との隔たりは更に大きいのです。
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