衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年07月07日    土曜日     第3開示 合計718開示

衆生の心は異なるがゆえに、現れる像も異なる

胡来たれば胡を顕し、漢来たれば漢を現ず。如来蔵 (tathāgatagarbha) は一面の鏡のようであり、誰が来れば誰を映し、一切法は鏡中の像のごとく、すべて如来蔵が鏡に像を現すようにして顕現したものです。大地山河は鏡中の像のごとく、色声香味触法も鏡中の像のごとくであり、鏡の外に物はなく、心の外に一法もありません。しかし衆生の心はそれぞれ異なるので、現れる像も異なり、ゆえに一つの像が現れても、各人の心が異なれば、異なる観点、意見、見方を生み出し、互いに争い、互いに紛れを生じ、世界は太平ではなくなるのです。

かつて三人がインドへ観音菩薩を参拝しに行き、石洞に入りました。三人は同じ一つの観音菩薩像を前にしましたが、修行の道行きが異なるため、見える像にも差がありました。一人が見たのは観音菩薩の出家像、一人が見たのは在家像、一人が見たのは観音菩薩の帽子をかぶった像であり、しかも見える身の色も大きく異なっていました。外の相分はみな同じであるのに、各人が見る内の相分には差異があるということは、すなわち各人の心の境界が異なることを示しているのです。

同様に一つの川でも、人間が見れば河水であり、天人が見れば琉璃であり、餓鬼が見れば炎です。福德が異なれば、現れる像も異なるのです。このことから、像は唯識が変じて現したものであり、八つの識が和合して変じたものであることがわかります。衆生が心を修め、心が清静 (praśama) になれば、娑婆世界の大地は黄金の地に変わり、極楽世界と分毫も変わりなくなります。心が仏を作り、心が餓鬼を作るのです。心が完璧に清浄になったなら、なお西方に生まれようと求め、さらに東方に生まれようと求める必要があるでしょうか。迷える者は相を修めて心を修めず、百劫修めても相好を得られません。

——生如法師の開示
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一切法はすべて如来蔵(tathāgatagarbha)が第七識に依って出生するものである

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