衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月17日    月曜日     第3開示 合計1109開示

仏法を学ぶ目的は無我に至ることです

多くの人々は毎日、話すために話し、自己を表白し、自己を誇示するために言いたい放題で、心の中の自我が非常に重く、自らの身業・口業・意業を回光反照して点検することを知らずにいる。修行とはいったい何を修めるのか? 一言控えるように言われると、心の中では不愉快になり、毎日「無我」と唱えながら、心の中の自我は依然として重い。自らを点検してみよ。修行は結局何を修めたのか、その力はあるのか?

自らの心を点検せよ。なぜ不愉快な感情が生じるのか。もし心に自我がなければ、自我が重くなければ、不愉快になることがあろうか? 自分に順うものは楽しく、自分に順わないものは悲しみ、憂い、恨み、苦しみとなる。これこそが完全な自我である。これは無我とは正反対である。修行の最終目的は無我に達することであり、毎日心の中の自我を溶かし去ることである。これが最良の修行である。多くの経典や論書を学ぶのは、無我に達するためであり、仏法を学ぶために仏法を学ぶのではない。仏法を学ぶ目的は無我を実践することにある。もし毎日、自分の自我のために仏法を学び、自己を顕示しているなら、それは修行に逆行しているのではないか?

末那識の意根における我執が重い原因は、自我への執着にあり、常に自己を突出させ、自己を表白し、自分は如何様だと思い込み、間違っていると指摘されると、すぐに自己弁護するか、憤慨して立ち去る。これらはすべて深刻な自我心である。真に急速に修行し、急速に道業を増進させたいなら、毎日自らの煩悩心所法が以前より減少したかどうか、情緒的な表現が減ったかどうか、慢心や自我心が軽減されたかどうかを点検すべきである。これが正しい修行である。多くの知識や見解を学びながら、自我心や慢心を増長させるのは、間違った学び方であり、逆行した学び方である。

——生如法師の開示
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