衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
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日常法話

2018年12月18日    火曜日     第1開示 合計1110開示

離念霊知心とは何でしょうか

第八識は遍く一切の時に、遍く一切の地に、遍く一切の処に、遍く一切の界に、遍く一切の法に存在する。遍一切時の意味は、第八識が刹那刹那に存在し、一切の衆生から離れたことがなく、第七識である意根からも離れず、五蘊からも離れていないことを指す。遍一切地の意味は、三界九地の衆生すべてに第八識が存在し、あらゆる衆生に第八識があり、三界九地に生存するすべての衆生に第八識が存在する。たとえ三界を離れて無余涅槃に入っても、依然として第八識は存在するが、ただ衆生自身が存在しなくなるだけである。

遍一切処の意味は、第八識が六根に遍く行き渡り、また六境にも遍く行き渡り、衆生の六根が六境に接触するとき、常に第八識の存在と顕現があることを指す。遍一切界の意味は、六根の上に第八識があり、六境の上に第八識があり、六識の上にも第八識があることを指す。遍一切法の意味は、存在する法であれば、認識できるかどうかにかかわらず、すべて第八識の住持があることである。色法であれ心法であれ、すべて第八識の執持がある。有為法であれ無為法であれ、すべて第八識の住持がある。存在する法がある限り、一切の人・事・物・理には、すべて第八識の住持がある。

多くの人は、念を離れた霊知の心が果たして第六識なのか第八識なのか理解していない。ここでこの念を離れた霊知の心を分析してみよう。離念とはこの時たまたま念頭や妄想がない状態を指し、霊知とは霊妙な覚知を意味し、自らが念を離れていることを知り、自らに念頭がないことを知り、自らが一時的に妄想や思想がないことを知り、離念の状態では他の境界をも了知し得る。ではこの離念の境界にはいったい幾つの識があるのか。第八識が遍く一切時に存在する以上、この時には確かに第八識が存在しており、そうでなければ五蘊の存在もなく、七つの識の存在もなく、離念の状態も存在しえない。

この時、第七識は存在するのか。もちろん存在する。もし第七識がなければ、衆生は無余涅槃に入り、そもそも離念霊知の状態は現れない。ここに第六識は存在するのか。もちろん存在する。第六識が断滅する五つの状況、すなわち「眠って夢がない時、昏迷状態、死亡時、無想定、滅尽定」は除くが、離念霊知はこの五つの状況に属さないため、第六識心も存在することを示している。しかも自らが無念の法塵境界であることを了知できることから、離念霊知の時に知覚する心こそが第六識であることがわかる。離念霊知の時に前五識があるかどうかは、色・声・香・味・触の五境が存在することを了知できるかどうかであり、それが五識の了知である。

離念霊知の時には、少なくとも第八識、第七識、第六識という三つの識が存在する。もしこの時に悟りを開いたと言う者がいるならば、いったいどの識を悟ったのか。ここに大きな違いがある。正しく悟れば第八識を悟ったのであり、誤って悟れば第六識を悟ったのである。第七識は普通の人には悟りにくく、第八識も悟りにくい。これには特別な条件が必要である。この特別な条件とは、仏が説かれた菩薩の六波羅蜜の条件である。もし六波羅蜜の条件を具えていなければ、第八識を悟ることは不可能であり、明心して真実の義の大菩薩となることもできず、凡夫の位から離れることもできず、したがって未来永遠に三悪道に堕ちることはない。

もしこの人の修行において、福徳が不足し、戒律も持たず、心性もまだ十分でなく、忍辱が足りず、布施・持戒・忍辱・禅定・般若の修学においても精進が足りず、禅定も未到地定を具えておらず、仏法の知見も具わらず、第八識の体性も了知していなければ、想像に難くないが、この人はいかなる方法でも第八識を悟ることはできない。もしこの時に悟ったと考える者がいるならば、自らが悟ったのがいったいどの識なのかを仔細に点検すべきである。八識の体性をすべて学び理解し通した上で、改めて自らと他人の悟った内容を判断すれば、何を悟ったのかがわかるであろう。

——生如法師の開示
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