衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年06月27日    水曜日     第4 回の開示 合計684回の開示

真なる心は守る必要があるでしょうか

五祖はこうおっしゃいました。「本心を守れば、自然に妄念は生じない」と。五祖の意味するところは、我々が自性清浄心を生滅しない真実の心と認め、虚妄なる五陰身を自己と認めず、生滅する妄心を自己と認めず、このようにできれば真に心を明らめ道を悟った者となり、生死の流転を免れることができるというものです。

真実の心を証得した後は、それを守り見張る必要はありません。なぜなら真実の心は守ろうと守るまいと関係なく常に運行しており、逃げることも失われることも滅びることもないからです。ただ意識心が真実の心である如来蔵の体性に依り止まり、自らを改めれば、心は次第に清浄になっていくのです。これを守るとは、依り止まって認めるという意味で、これを真実と認めれば外に向かって貪り求めることがなくなります。我々の六識心身口意行は如来蔵の清浄なる体性に依り止まって造作すべきであり、同時に如来蔵の清浄なる体性に依り止まりながらも、自らの妄心である七識を清浄にすることもまた「守る」という行為なのです。

悟った後は終日真実の心を見張り執着する必要はなく、かえってそれが束縛を増し執着を強めることになります。内心が真実の心にも三界の法にも執着しなくなれば、牢関に至り、さらに生死の牢関を突破できるのです。ある者は悟った後も保任が必要だと説きますが、保任すべきは意識心であって、意識心が妄念を起こさないようにすることです。彼らは妄念が起これば真実の心ではないと考え、できるだけ長く無念の状態を保つことが真実の心を守ることだとするのです。実際に彼らが守っているのは意識妄心であり、真実の心は元より守る必要がなく、本来のままに存在し、逃げず失われず、変異せず、消滅もしません。守るべきは、明心以前に真実の心を真我と知り、自性として認めることであり、明心後は真実の心の体性に依り止まり、自らの心行を改め、貪瞋痴慢などの煩悩を降伏させ、心を清浄にし、私心や慢心を起こさないようにすることこそが真の「守り方」なのです。

——生如法師の開示
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