相を離れるとは、六識の心をして世間の一切の虚妄の相から離れさせ、これらの虚妄の相を真実と認めず、それによって虚妄の我見を破り、世出世間の真実の相を識得することをいう。真に相を離れたる者は、本来より一切の相を離れ、何らの相貌も持たぬ如来蔵の心体である。
「離」とは剥離し排除する意味であり、「排除」とは世間の生滅する虚妄法を真実と認めず、世間に存在する全ての法が無常・生滅・変易・苦・幻化であることを観察することである。これらの特性を備える法は真実の法にあらず、故に心の中ではこれらを再び真実と見做してはならない。
これらの虚妄法を逐一否定した後、我々はこれらの虚妄法の中から、究竟してどの法が本来一切の相を離れ、不生滅・常住・不変易・不空にして真実の作用あるかを探求する。もし一法を見出し、それを真如つまり真の自己と認めるならば、般若心経に説かれる空性心の体性と照合し、この法に増減・変易・生滅・無常・変化無常・不自在・因縁生・多因縁条件に制約される現象があるか否かを観察すべきである。
もしそうであればそれは生滅の虚妄法であり、そうでなければまさに心経の説く不生不滅・不垢不浄・不増不減・不空不有の体性に符合する真実永遠不変の真如如来蔵である。これこそ真の実相心を見出し、真に如来蔵の本心を証悟したことになる。
故に剥離法とは何かを滅却するのではなく、世間法の虚妄不実性を確認し、それを真と認めず、全てを剥離した後に残る不生滅・不変異なるものを真とするのである。この方法は座禅で覚知心を滅却するものではない。もし覚知心を滅却すれば、真如如来蔵を知ることができず、明心開悟も叶わない。
真心如来蔵の証悟は必ずしも座禅修定時に限らない。覚知心が多少清浄になり妄想念がなくなったからといって、これを開悟と認めてはならない。この時意識は一時的に妄想念がなく清浄に見えるが、やがて再び現れる。永久に清明を保ち妄念なき状態はあり得ない。仮に永遠に妄想念がなく清浄であっても、それは依然として意識心であり、決して真心とは成り得ない。これは妄想法塵境界の生滅変異現象であって、不変易の真如心ではない。これは一時的な定の境界に過ぎず、開悟の境界ではない故、真実法と認めてはならない。
では世間の虚妄法とは何か。世間法とは世俗法、すなわち五陰世間法であり、六根・六塵・六識を含む。六根は眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根。六識は眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。六塵は色・声・香・味・触・法。眼根に対応するは色塵、耳根は声塵、鼻根は香塵、舌根は味塵、身根は触塵、意根は法塵である。
五陰は色陰・受陰・想陰・行陰・識陰。五陰十八界は三界世間の全体であり、その一々の法は全て虚妄・生滅変異・無常である。五陰世間は有為法、行為造作ある法、後天出生の法である故に虚妄なり。出世間法とは如来蔵を指し、これは三界世間に属さず、何らの対立法も持たない故に真実の法である。
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