一切の法は、意根という主人が必要とするものであり、六識は意根の主人に奉仕するために存在し、主人の指示に従わなければならない。もちろん、主人である意根も時には僕の意見や提案を聞くことがある。例えば、意根が水を飲みたいと望むと、如来蔵がそれを了別した後、六識を生じて水を飲むという行為を造作する。意識は水の飲み方や手順を考え、その後、身識や眼識と共にコップを取り水を注ぐ。意根がどんな水を飲みたいかによって、意識はそれに応じた水を準備し、意根がいつ飲みたいかによって、意識はそのタイミングを調整する。最終的に六識が協力して水を飲み、水を飲むという仕事を完了する。正確には七識、あるいは八識が共同で水を飲む仕事を成し遂げたと言える。
もし意根が水を飲みたいと思わなければ、六識は生じず、水を飲む行為も造作されない。意識は永遠に意根ほど重要ではなく、意識は意根の必要に応じて随時随所に生じる法であり、意根によって決定される。意識は従属的な立場にあり、意根に奉仕するものである。意識は意根を十分にサポートしなければならない。もし意識が意根を適切にサポートできない場合、意根は不機嫌になり、心に不快感を抱き、時には感情的になったり、鬱屈したり、あるいは精神的な異常をきたすこともある。意識が意根に長期間にわたって深刻に逆らう場合、意根の心に問題が生じ、精神錯乱や統合失調症を引き起こしたり、発狂する可能性もある。
意根が音を聞きたいと思えば、六識は生じて音を分別しなければならない。意根が指し示す場所へ六識は赴いて用事を遂行するが、その過程で意識は随時意根に提案を提供したり、要求を提示することができる。意根が承認すればそれに従い、六識は全て意根の指令に服従しなければならない。意根が六塵に対して何らかの考えを持てば、六識は出現して意根の考えを実現する。意根に特に考えがなく何も造作したくない場合、六識は出現しない。意根という主人は非常に大きな権限を持っており、六識は多くの場合、無自覚のうちに意根に駆り立てられて東奔西走し、盲目的に多くのことを行いながら、その理由を理解していない。意根が六識にどのように造作するよう望むかによって、六識はその通りに造作しなければならない。
私たちが仏法を修証する際、意根に力を注がず、意識心だけに力を注いだ場合、力を使い果たせば意識は滅び、何の結果も得られない。私たちが証果を得ようとする時、意識心だけで証得しようとしても、証得した後は滅びてしまい、何の結果も残らず、来世においても生死を繰り返し輪廻し続け、依然として無明に駆り立てられることになる。意識心だけで無明を破っても意味がなく、意根の無明こそが根本無明である。なぜなら生死の問題は意根の無明にあり、十二因縁の根本も意根の無明だからである。したがって、私たちが最初に意識に力を注ぐのは、意根に影響を与え、意根を薫陶するためである。意識は伝声筒のようなもので、伝言の道具であり、意根の分析や思考を助けることもできる。最終的に意根に確認させ、意根を変容させること、これが仏法を学び修行する上で最も根本的かつ最終的な目的である。
意根が変化すれば、意識の薫染作用も終了し、その後は意根が意識を完全に導いて善業を造作することができるようになる。意識は従属的な立場にあり、参謀や伝令兵のようなものである。意根はほとんどの場合、意識を利用するが、ごく稀に利用しないこともある。利用しない時、意識は何の役割も果たさない。例えば、私たちが上司に用事を頼みたい場合、まずその件を秘書に理解させ明確にさせる。秘書は意識に相当し、秘書が上司に状況を報告し、上司が事情を理解して初めて支援を決断し、事は成就する。
意識は門番のようなものである。私たちが上司に会いに行くには、この門番を通らなければならないが、もし門番のところで留まり、門番の関門を突破できなければ、永遠に上司には会えない。古今東西、多くの仏法修行者が意識心の周りをぐるぐる回り続け、ついにその門に入ることができていない。私たちはいつも悟りを開きたいと考えながら、意識を守って外側を回り、意根に入って意根に修証させようとしないため、悟りを開くことができないのである。もし門番が上司に会うことを許可しても、上司がダメだと言えば、上司に会って問題を解決することはできず、門番が何と言っても無意味である。上司が許可して初めて中に入り、事を解決できるのだ。したがって、仏法がどれほど優れていても、必ず意根に修証と確認をさせ、意根に五蘊無我を証得させ、如来蔵を証得させなければならない。意根が証得した後は、永遠に六識を正しい道に導き、善業を行い、善果を得るようになるのである。
3
+1