自証自証分、すなわち反観力と観照力・覚知力であるが、第七識の自証自証分は常時現れることはない。なぜなら禅定力と智慧力が不足していると、識心は自心を反観・反照する能力を持たないからである。第八識は常に反観力を有し自証自証分が存在する。なぜなら第八識の止観は永遠に存在し永遠に変化せず、永遠に増減することなく、修行しなくても存在するからである。
例えば意識の自証自証分、すなわち常時自心を観照することは、非常に強い定力が必要であり、慧力も優れていなければならない。仏が大念処経で説かれた観行の方法はまさに自心を観照する方法であり、自らが何をしているかを常に知っていることである。この「知」があれば心は定まり、「知」がなければ心は散る。なぜ仏はこのように教えたのかというと、衆生の心はすべて散乱しており、自心を覚知できないからである。自心を覚知することは自証自証分であり、自心を覚知できなければ自証自証分は存在しない。
反観力を有し自心を覚知できる者は、一方である程度の慧力を有し、他方である程度の定力を有している。仏法を学ぶ者と学ばない者とを問わず、この点は同じである。したがって各人の智慧は異なり、自己を理解する者もいれば理解しない者もいる。同様に、その他の諸識もこの通りであり、自証自証分が常に現前に活動することはない。
自証自証分とは反観力であり、自らが何をしているか、すでに何をしたか、どのような意図があるかを観察できる力である。その内面には当然ながら見分と相分が関わり、自証分から離れることはできない。「何を」の「何」が相分であり、「する」が見分であり、「何をするか」が自証分であり、「何をしたかを知る」ことが証自証分である。
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