衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年06月23日    土曜日     第2 回の開示 合計667回の開示

理解と証得の大きな違い

問:もし諸相が相にあらざることを見るならば、即ち如来を見るとする。このように理解する者が、自らが感知する一切(あたかもテレビ画面に映し出される内容の如く)に対して、常に如来蔵(あたかもテレビ画面の如き)の材質と機能の幻化であることを絶えず意識し得るならば、この人は如来蔵を証得したと言えるのでしょうか。

答:上記の内容は全て意識心による最も粗雑な理解に過ぎず、実際に証得したものではなく、現量観察によって得られたものではありません。誰が言おうと理解の域を出ないものです。経典に説かれ他人も語る内容は、個人の実証に属さず、個人の実証とは如来蔵が五蘊の身に具体的にどのような作用を及ぼすかを、禅参究を通じて具体的に工夫参究しなければなりません。些細な修行もせず、自らの感覚と推測によって僅かに理解したとしても、実際に如来蔵が具体的に如何なる作用をなすかは全く知り得ず、全ての無明が依然として存在しています。

一切法がテレビ画面の如きものだと考えるのは親証ではなく、証得とは言えません。一切法が如来蔵によって創造され、我々が一真法界に生きていると考えるのは悟りではありません。仏の一言で衆生が容易に悟るならば、仏法は余りにも容易過ぎます。三歳の子がこの言葉を聞いて粗雑に理解しただけで悟りを開いたとすれば、成仏は如何に容易なことか、無量劫また無量劫の生死業障も何ら障礙とならず、多くの無明も問題にならないことになりますが、実際にこのような容易な事は存在しません。

禅参究を経ず、調査検証もせず、資料証拠を収集しないまま、意根が如何にしてこれらの説を真理と確信し受容できましょうか。真の証悟とは第八識の運作の詳細、具体的に如何にして万法を出生し衆生の五蘊十八界を出生させるかを知悉し、菩薩の六波羅蜜を修めなければなりません。ある部分を理解したからと言って、その部分が仏や他人の説いた内容である限り、如何に理解を深めようとも自ら参究して証知したものではなく、現量観察がなければ心中に確信が宿らず、空虚な状態に留まります。

このような理解から証悟までの道程は、一年かかるかも知れず、三十年かかるかも知れず、百年かかるかも知れず、一万年かかるかも知れず、一無量劫かかるかも知れず、全く予測がつきません。意識が理解した内容は無常であり、瞬時に消滅します。細部に至っては意識すら知証せず、ましてや意根においてをやです。決定的な時には意根が主導権を握り、意根が確証していなければ無明は残存し、意識の全ての理解は臨終時には児戯の如く泡沫と化し、来世の趣向を決定できません。

常に自らに問いかけ、全ての疑問を解き明かすことで、或いは証悟に縁する辺りに至るかも知れませんが、必ずしも証悟そのものではありません。仏法はこのように神聖にして臆測を許さないものなのです。

——生如法師の開示
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