初地に至った後、五蘊の実質が如来蔵そのものであると観察されますが、初悟の段階ではこれを証得することはできず、五蘊と如来蔵の作用を厳密に区別し、混同してはなりません。混同すれば、それは誤った悟りとなります。如来蔵は風のように形も相もなく、どうやって捉えればよいのでしょうか。如来蔵が生み出す一切の相を観察し、これらの相がすべて如来蔵の作用の結果であることを知り、これらの相の上に如来蔵の働きを観察することで、如来蔵を証得するのです。これは風の作用と同じ道理です。
初めて如来蔵を証得し捉えた時、その作用の刹那を捉えることがあるかもしれません。この瞬間的な把握は如来蔵の小さな作用の一端に過ぎず、その作用を線として繋げることも、面として広げることもできていません。その現れは一点、一刹那に限られていることに気付きます。この悟りの層は極めて浅く、刹那刹那の悟りであり、如来蔵の作用は断片的で、線にも面にも繋がっていません。厳密に言えば、これは悟りとは言えません。真の悟りは少なくとも如来蔵の作用が線として連続することを証得し、理想的には面として広がり、大悟徹底した者においては広大な面として統合されます。
従って、ある者が悟りを証得したかどうかを検証する基準は様々です。判断を少しでも緩めれば、その者の大いなる智慧の開花を阻み、今後の道程を困難極まるものにする可能性があります。その者の前途を損なうだけでなく、仏教事業の安定した発展にも影響を及ぼしかねません。如来蔵の刹那的な作用を悟ったならば、勢いに乗じて追究を続け、一つの事柄を明らかにし、智慧を更に拡大させるべきです。如来蔵を点から線へ、そして全体を通して悟り抜き、更に線から面へと広げていくのです。
最初に如来蔵を見出すのは特定の作用点においてです。深く思惟参究を重ねることで、ここが如来蔵の作用であり、あそこも如来蔵の作用であり、向こうも如来蔵の作用であると理解します。これらの点はまだ分散しており、線として繋がっていませんが、徐々に線として結んでいきます。最初は眼根において、色法を見る作用の中に如来蔵を見出すかもしれませんが、それは如来蔵の色彩や形相を見つけるのではなく、意識が如来蔵の作用の仕方を発見するのです。
最初に眼根において如来蔵の作用を発見すると、やがて他の五根においても同様に如来蔵の作用を認めるようになります。六根全てにおいて如来蔵の作用の現れを観察できるようになります。しかしある者は如来蔵の刹那的な作用を証得しても、その連続的な作用の仕方を知らない場合があります。更に観察参究を重ね、智慧が開ける時、如来蔵の作用を線として、面として繋げることができるようになるのです。
3
+1