衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年12月23日    日曜日     第1開示 合計1118開示

謗とは何か

雑阿含経には、外道あるいはある居士が世尊の弟子に仏法を請い教えを求め、弟子が答えた後、「私のこの回答は世尊の法教に適っており、世尊に背いたり、世尊を毀謗したりしていないだろうか」と考えたという記述がある。そこでこの弟子は世尊のもとへ行って尋ねた。「世尊、外道が私に仏法について尋ねましたので、私はこのように答えたのですが、あなたを毀謗していないでしょうか」。世尊は言った。「あなたの回答は正しく、私を毀謗していない」。ここから私たちは、話しや言葉による表現が事実に合わない限り、それがすなわち毀謗であることを知るべきである。弟子が伝え広める仏法が仏意に合わず、仏と一致しなければ、それが謗仏である。もし仏がある法はこのようであると言ったのに、弟子がこのようではないと言えば、それは謗仏であり、謗法でもある。仏の説かれた法教に対して「否」と一言言うだけで、すでに謗仏謗法なのだ。

では謗僧もまた容易に成立してしまう。謗僧はさらに凡夫僧を謗するのと、得道した比丘僧・菩薩僧を謗するのとに分けられる。前者の罪業はまだ軽いが、後者の罪業はきわめて大きく、その果報は思議不可である。あなたが勝義僧を否定して、「否」あるいは「違う」「間違いだ」と一言言い、しかも事実がそうでなければ、誹謗の罪は成立する。衆生は往々にしてこれらを気にかけず、他人を否定することに何の過ちもないと考え、軽々しく「違う」「そうではない」と口にする。しかしこれは単なる過ちの問題ではなく、罪業の問題であり、根本的な問題に関わるものは往々にして地獄の罪であり、後世において自分が勝義僧を誹謗したことの甚大な悪報を自ら受けなければならない。後世において本当に悪報を受けたとき、往々にして自分がなぜこのような悪報を得たのかも分からず、そこでとりとめもなく報を受け、さらにとりとめもなく業を造る。衆生とはこのように愚痴無知なものである。

——生如法師の開示
前へ前へ

戒体自体にすでに非を防ぎ悪を止める功徳の作用がある

次へ 次へ

因縁条件が具足してこそ悟道できる

ページトップへ戻る