雑阿含経には、外道あるいはある居士が世尊の弟子に仏法を請う際、弟子が回答した後、「私のこの答え方は世尊の教えに適っているだろうか、世尊に背かず世尊を謗ることにはならないだろうか」と考える様子が記されています。そこでその弟子は世尊に「世尊よ、外道が私に仏法を問い、私はこのように答えましたが、世尊を謗ることになりましたか」と尋ねます。すると世尊は「汝の答えは正しく、私を謗るものではない」と答えられます。ここから我々は知るべきです。言葉や表現が事実に合致しない時、それはすでに謗りとなります。弟子が伝える仏法が仏意に合わず、仏と一致しないならば、それは仏を謗ることになります。もし仏がある法を「かくの如し」と説かれたのに、弟子が「かくの如からず」と言えば、これは仏を謗り法を謗ることに等しい。仏の説かれた法教に対して「否」の一字を発するだけで、すでに仏法を謗る罪を犯すのです。
では僧を謗ることは更に容易です。僧への謗りは凡夫僧を謗ることと、悟りを得た比丘僧・菩薩僧を謗ることに分かれます。前者の罪業はまだ軽い方ですが、後者の罪業は極めて大きく、その果報は計り知れません。勝義僧を否定し「否」の一字や「そうではない」「間違っている」と発言し、事実がそうでない場合、誹謗の罪が成立します。衆生は往々にしてこれを軽視し、他人を否定することに過失はないと考え、軽々しく「違う」「そうではない」と口にしますが、これは単なる過失ではなく罪業の問題です。根本的な問題に関わるものは往々にして地獄に堕ちる罪であり、後世には自ら勝義僧を誹謗したことによる極大の悪報を受けることになります。後世実際に悪報を受ける時、往々にして何故このような報いを受けるのか理解できず、混沌としたまま報いを受け、再び混沌としたまま罪業を造り続ける。衆生とはこのように愚痴無明な存在なのです。
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