証果と明心の条件が具わっていれば、相応する因縁に遇う時、どのような因縁であれ、人為的に設計されたものであれ、自然環境によるものであれ、内心を触発するものであれば、証果と明心が可能です。もし仏陀の説法に遇えば更に証果と明心見性が容易になります。仏陀の威徳加持力は非常に大きく、仏陀が説法する法会の磁場効果も極めて大きいのです。まして仏世の修行者は普遍的に甚深な禅定を具え、心が清浄で、出離心があり、煩悩が微細で、善根福徳が深厚であったため、法を聞くやいなや、仏陀の音声に随って観行思惟し、直ちに証果と明心を得ることができたのです。
もし仏法を学んでいても修行が不十分で、内心に疑情がなく、参究の心が起こらず、心に念茲在茲の状態がなければ、たとえ多くの悟道の因縁に遇っても、空しく見過ごしてしまい、悟道することはできません。末法の衆生は仏世の衆生とは比べものにならず、善根が浅く福も薄く、内心が浮ついており、禅定がないため、たとえ仏法をどれほど詳細に説かれても心に入らず、真の証果を得ることはできず、せいぜい理解する程度が関の山です。
まさに衆生が普遍的に禅定を具えず、禅定を具足できないが故に、「禅定を修めず直接に観行すればよい」という説が現れました。しかし禅定なしにどうして観行の能力が生じましょうか。何を観行できるというのでしょうか。どれほどの時間観行できるのでしょうか。各自で試してみれば、禅定を修める前の観行と修めた後の観行の効果の差がどれほど大きいか、雲泥の差があることが分かるはずです。結果は本質的に異なります。
一つの法義を、禅定ある状態で思惟するのと、禅定なしで思惟するのとでは、天地ほどの差があります。だから多くの人が仏法を思惟しても真に理解できず、誤解が多く、真実義を理解できず、実際に証得し現量で観行しようとすれば、実に困難極まりないのです。それでも多くの人は自らの理解力を過信し、よく経文を引用して自説の根拠とします。実は経文の意味と自説は一致せず、自ら多くの誤解を抱いていることに気付いていません。経典を研究する人でも、経典の真義を如実に理解し得ず、自分はよく分かっていると思い込んでいます。実は仏法は研究で得られるものではなく、甚深な禅定による如理思惟観行参究によって初めて真に理解し証得できるのです。研究では証得できません。
ある人々は経典に「衆生が仏陀の説法を聞いたその場で証果と明心を得た」とあるのを見て、彼らは禅定を修めずに直ちに証果したように思い、法を聞き少し思惟すれば証果でき、特別に禅定を修める必要はないと誤解します。この誤解は甚だ大きく、その場で証果した人々が既に禅定を具足し、善根福徳が深厚で、ただ因縁を待っていたに過ぎないことを見落としています。仏陀の説法という最殊勝な因縁に遇えば、当然容易に証果と明心見性できるのです。これらの人々は最終結果だけを見て、証果した者がそれまでにどれほどの修行の道程を歩み、仏陀の説法を聞く前に如何に精進し、如何に発心し行持し、如何に努力して禅定を修めたかを見ようとしません。これらの必要条件を無視し、証果の最後の部分だけを切り取るのは、最も深刻な断章取義です。
現代人は浮ついて近道ばかり求め、簡易直接を好み、仏陀が歩まれた道すら歩もうとせず、自らの方法が仏陀より実用的で直接的で、苦労せずに済むと思い込んでいます。まさか凡夫が仏陀より優れ、仏陀より智慧があるとでもいうのでしょうか。仏陀の修行は回り道で、自分が歩む道が最も直接的で、基礎を築く必要もなく、代償を払うこともなく、苦労して禅定を修め自心を降伏させる必要もなく、研究するだけで大きな成果が得られるとでもいうのでしょうか。痴人の夢物語です。研究で得た果は紙細工のようなもので、風が吹けば崩れ、火に遇えば溶けてしまいます。今の世には偽りの果が多く、大根判を押したようなもので、風の前の塵にも耐えられず、死後の果報は自らが知るべきです。
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