衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月23日    日曜日     第3開示 合計1120開示

五蘊の機能作用は意根が主か、それとも意識が主か

識蘊の「蘊」は覆い隠すという意味であり、六つの識が第八識の真の機能・作用を覆い隠すだけでなく、第七識もまた第八識の機能・作用を覆い隠す。重要なのは、誰に対して覆い隠すのか、誰が主人公の機能・作用を認識できなくなるのかである。六つの識の機能・作用が第八識の機能・作用を覆い隠すことで、意根は六つの識の機能・作用があたかも真実であるかのように感じ、それらがすべて第八識の機能・作用であることに気づかず、意根に錯覚を生じさせる。その結果、意根は六つの識の受想行識蘊を「我」として執取し、それを真実であると認識する。

しかし、意根自身もまた、自らの攀縁性・主宰性・執取性・執着性を「我」として執取し、それを真実であると認識しているのだろうか。これの鍵は、意根に自己を反観する能力があるかどうか、自らの機能・作用を観察できるかどうかにある。仏は八つの識にはすべて証自証分があり、反観する能力があると説かれている。ただその能力の大小はあるが、意識がこれらの反観力を分析できるかどうかである。なぜ意識が発見しなければならないのか。それは意識が意根という五蘊身によって用いられるものであり、意識は五蘊身の事柄をよく処理できるからである。意根は背後に隠れ、ひそかに指揮・操作することしかできず、意識が表面で運営・実行する。もし意識が状況を理解していなければ、意根が事柄を処理するのを助けることができない。したがって、多くの人は意識自身の作用しか観察できず、皆、意識の作用を主とし、意識の作用を自らの真の作用と認め、意根の作用を最も主要で重要なものとは見なさない。そのため、意識が理解せず観察できない法については、多くの人はその存在を認めず、断固として否定しようとする。

意根にも証自証分による反観能力があり、自らの機能・作用を観察することができる。意識がこの点を観察できるかどうか、意識が認めるかどうかに関わらずである。そして意根は自らのこれらの機能・作用を実体であると認め、執取を加える。それらがすべて第八識の機能・作用であることを知らない。真に正しく明心開悟した後、ようやく意根ははたと気づく。なるほど、そうではなかったのだと。したがって、我見を断ち明心見性し、いかなる果を証得し、いかなる事実を明らかにするのも、すべて意根と意識が共に証得し明らかにするものである。これは非常に重要である。

——生如法師の開示
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意根の反観力

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