意根はどのように変化するのでしょうか。現量で証得して初めて意根を変化させることができ、これ以外の方法では意根を変えることはできません。例えば子供が火の危険性を理解せず、大人が「火遊びをするな」と諭しても聞き入れず、ある日火傷を負う事故に遭って初めて火の恐ろしさを知り、以後火遊びをしなくなります。これは意根が直接火の危険性を証得したためで、改めて思惟観察する必要なく直ちに認識し、記憶に刻まれ、即座に今後火遊びをしないと決意するのです。意根は火遊びの習慣を改めたのです。また喫煙が健康に有害だと広く啓発されていても、喫煙者はなおも僥倖を抱き続け、肺疾患を患って初めて禁煙を決意します。意根がニコチンの害を直接証得した時、喫煙の習慣を改めるのです。多くの事例が示す通り、意根は自ら経験し証得して初めて信じ、信じた分だけ改め、信じる程度に応じて変化するのです。
証果も同様で、五陰十八界の無我を親証した時に意根が変化し、解脱の功徳を受用します。証得した程度に応じて変化が生じ、初果から四果に至るまで、意根は五陰十八界の無我の理を次第に深く証得し、認識を深め、五陰の無我性を完全に証得し、一念の無明を断尽すれば我執も断尽し、三界世間から解脱して造作を離れます。前三果の段階では意根の証得が未だ浅く、煩悩と一念の無明が残存しているため、なお造作が生じ、直ちに三界世間から解脱することはできません。ましてや慧解脱の阿羅漢は禅定が不足し、神通を証得していないため、自在に往来する能力がなく、五陰に制約を受けるのです。
意根が初果において我見を断たないなら、いずれの時点で断じるのでしょうか。必ず我見を断つべきですが、いかなる時に断つのか。まさに初果において我見を断ち、その後修行を深めて煩悩と無明の思惑を断除するのです。つまり再び五陰十八界の法を観行思惟し、無我の智慧を深め、意根がより多くの証拠を得て深く証得し、大いなる変化を遂げ、ついに煩悩を断ち我執を断ち、三界への貪愛を断つに至るのです。これが小乗の立場です。
これは我見を断つ程度の差異、智慧の違いが意根の転変の度合いを生じさせることを示しています。初果から四果に至るまで、意根が五蘊無我の智慧を証得する次元が異なるため果位が異なり、煩悩の有無の段階が異なり、我執の調伏と断除の程度が異なるのです。大乗の証果も同様に、如来蔵を証得する深さが異なり、智慧が異なり、無明を断除する程度が異なるため果位が異なります。
大乗において如来蔵を親証する時、証得した分だけ意根は変化し、仏地における完全な証得に至れば意根は徹底的に変化し、完全に識を転じて智と成し、もはや転変する必要がなくなります。仏は無住処涅槃の中に安住されるのです。
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