問:意識の念は、意根の念が注視する内容なのでしょうか。もしそうであれば、意識の念頭を辿ることで、意根が現縁に随って捉えている法を逆推できることになります。意識の現前の念を制御すれば、間接的に意根の縁る対象を制御でき、次第に意根が慣習化されれば定が生じるという理屈でしょうか。
答:意識と意根が縁とする法は同一であるべきです。意識が弁別する対象は必ず意根が攀縁する法でなければならず、さもなくば意識が生起する必要がありません。意識の生起は意根に奉仕するため、即ち意根に服従すべきですが、意識が法を弁別した後、思惟分析を経て自らの見解を形成すると、時に意根に逆らい、その意向に沿わぬ場合があります。もし意識に正知見があれば、徐々に意根を転換させ得ますが、意根がどこまで受け入れるかが鍵です。意識が過激すぎれば意根を逆撫でする危険があり、意根を正道に導けません。故に意識が聡明であれば巧みに意根を導きますが、愚鈍であれば効果がなく、却って逆効果となったり意根に引きずられたりします。仏法修行者の意識は意根に対し次の態度を堅持すべきです:あなたが私を混乱に導こうとしても従わず、貪・瞋・痴に引きずり込もうとしても従いません。次第に意根は手段を失い、先導を止めて却って意識に導かれるようになるのです。
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