衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年06月07日    木曜日     第3 回の開示 合計607回の開示

学習理論は実修実証に等しいものではない

四聖諦、四正勤、四神足、五根、五力、七覚分、八正道といった教えは、見道前後の修行過程を示すものであり、大乗と小乗に大きな差異はなく、修行の過程は相似相通じています。これらの過程を経ずに突然結果が現れ聖人となるならば、その果は極めて信頼性に欠けます。結果や結論は模倣可能であり、全ての知見は暗誦でき、書籍を多読すれば暗誦し想像することも可能です。

しかしこれらの修行過程は誰にも模倣できず、見道して果を証する者は必ず経なければならない過程です。各人の過程は前世の基盤によって多少の差異が生じます。前世ですでに果を証した者は、今世ではこれらの過程を速やかに通過しますが、他者はそうではなく、一つひとつ実践検証し、全ての関門を突破しなければなりません。大乗の果位も同様です。これらの過程を経た時、身心は転換し、果を証する際には偉大なる解脱の功徳を享受できるのです。

これらの過程を経ていない者の得る果は、あたかも空中の花のごとく、鑑賞するのみで実用価値がなく、解脱の功徳を享受できません。造花果実の如く、飾って眺めるのみで空腹を満たせないのです。

いわゆる実修とは、大乗小乗の三十七道品の修行内容を指します。これらの具体的な修行内容を離れては実修とは言えず、結論のみで過程のない修行は実修ではなく、理論のみを学ぶことも実修ではありません。理論では菩薩の境地に至る理を学べても、その理を理解したとしても、実際に証得するまでには無量劫もの隔たりがあります。一二の無量劫後の理論を今学び、自らが掌握したと錯覚し聖人を自認しても、前の道を歩まず実際の修行過程を経ず実践しなければ、そのような修行は夢幻泡影に等しく、空華を得て虚ろな果を結ぶのみです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

如来蔵の証自証分(三)

次の記事 次の記事

如来蔵の思心所の機能と作用

ページのトップへ戻る