一般の衆生に対し如来蔵に証自証分が無いと説く所以は、第一に、凡夫や地前の菩薩は如来蔵の証自証分を観察することができないため、如来蔵に証自証分があるとは説かないこと。第二に、如来蔵の証自証分の内容は意識の証自証分の内容と異なり、また他の妄識の証自証分とも異なることによる。如来蔵は無我であり、我の存在を知らないが、それでもどの法が運行されたかを知り、既に運行されたものは繰り返さず、未完了のものは継続して運行する方法を知っている。
如来蔵の無我性における証自証分は、言葉で明確に説明することが極めて困難である。あたかも如来蔵の了別性や了知性が一般の衆生に説明し難いのと同様である。如来蔵は六塵を了別するか?もちろん了別する。そうでなければ如何にして六塵を顕現し、変化させ、保持することができようか。ただし第八識のこの種の了別は、六識のように具体的な内実を了別するものではなく、六塵を了別した後、了別したものが何であるかを知るのである。如来蔵が六塵を了別した後、何も知ることなく、再び了別と運行を続ける。如来蔵の機械的な了別方式は、コンピューターがプログラムを了別する様に似ており、コンピューターも字体を了別し書き出すことができるが、字体が何であるかを知らず、意識のみが字体の意味を知るのである。
如来蔵の了別は洗濯機が指令を了別して衣類を洗う様にも似ているが、洗濯機は指令の具体的な内容や意義を知らない。これに対し意識はそれを知る。如来蔵の運作了別了知性は、あたかもロボットの無心さの如く、作業を行いながらも遂行した内容を知らず、意識のみがそれを知るのである。
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