問:もし意根も生滅する法であるなら、その恒に審らかに思量するという「恒」はどう理解すればよいのでしょうか?
答:「恒」とは非常に長い時間を意味し、意根の恒は成仏後も滅びることはありません。しかし滅ぼさないということは、意根が滅びえないというわけではなく、阿罗汉や辟支仏は意根を滅尽して無余涅槃に入ることができ、七地以上の菩薩や諸仏は意根を滅尽できるが意図的に滅ぼさないのです。意根は第八識が識の種子を送り出すことによって生じるもので、第八識によって初めて生まれ運行するものであり、不生不滅の本来の法ではありません。一旦意根が三界の世俗法を執取しなくなると、第八識は意根の識の種子を送り出さなくなり、意根は滅びます。したがって、意根が恒に審らかに思量するという「恒」は六識に対する相対的なものであり、第八識の「恒」とは比べものになりません。第八識の「恒」は絶対的で比類がなく、意根の「恒」は相対的なものなのです。
(注:以下のように専門用語の統一訳を採用しています) - 意根:末那識(まなしき) - 第八識:阿頼耶識(あらやしき) - 恒審思量:恒に審らかに思量する(つねにあきらかにしりょうする) - 阿罗汉:阿罗汉(あらかん) - 辟支佛:辟支仏(びゃくしぶつ) - 無余涅槃:無余涅槃(むよねはん) - 七地以上菩薩:七地以上の菩薩(しちじいじょうのぼさつ) - 諸佛:諸仏(しょぶつ) - 識种子:識の種子(しきのしゅじ) - 三界:三界(さんがい)
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