毎時毎刻、常に一つの知を保つこと、これが四念処経において仏陀が説かれた観行の方法であります。一つの知を保つとは、意識の自証分に他ならず、法を了知し、絶えず観察し続け知り続けること、すなわち意識を観察対象の一処に集中させ、心を散乱させず禅定の状態に安住させることであります。意識が散乱せず一法に定まるが故に、意根が意識を引きずることができず、やむなく一法に定着するに至ります。もはや多くの法に縁を求めて散乱することなく、意根は意識が観察し知る法を了知し、この法を思量し続けるうちに、時を経てその法の本質を明らかにし、真相を発見し真理を悟るに至ります。これは意識の知から意根の知への過程、即ち法を証得する過程であります。意識の知は解に属し、意根の知は証に属します。故に法の証得は必ず意根の証によるのであります。
意根が法を了知し証得する時にこそ実質的な作用力が生じます。例えば自らの過失に対し、意根が知らねば意識のみが知る状態では、意識は過ちを知りつつも繰り返し犯して改めず、意根が過ちを知れば心を改めて過ちを正すのであります。また人に対する態度においても、真実の善意か偽りの好意かを識別しやすくなります。意識による対応は虚仮の心に過ぎず、意根による対応こそが真実の誠意であります。
真に自らの過ちを改め貪瞋痴の煩悩を降伏せんと願うならば、常に覚察を保ち、身口意の行いを省み続けねばなりません。長期にわたり冷静客観的に、局外に立ち高所から俯瞰する如く観察を続ける時、自らの過ちと貪瞋痴の煩悩を観じ、その不如法さを深く自覚し、不如法な結果の甚だしき不利を知るに至ります。意根が自らの煩悩習気を覚知するに及んで、思量を重ね、利害因果を秤量し、遂には貪瞋痴を断じ従前の如き行いを改める決意に至るのであります。
長期一貫した観察なくしては、意根を観察対象に定着させることができず、意根は依然として諸法に攀縁し散乱し、自らの煩悩を知ることなく、煩悩を降伏することも叶いません。これこそ正知正念を保つ結果であり、意根の覚醒を促し法を証得させる所以であります。
或る人々は禅定を修することなく日々観じ続けることを唱えますが、かかる観法に何が得られましょうか。譬えば十人の子を同時に見守る者と、一人の子に専念する者との細心さの差、十方の敵を警戒する者と一方向一箇所に専注する者との観察精度の差、十の課題を同時に考える者と一つの問題に専心する者との思慮の深さの差を思うべし。禅定なき場合、意根は種々の法に攀縁し、価値ある一つの課題に専一する心を失い、適切な観察と思量を欠き、正しい認知と如法な対応を損ない、些細な問題を見落とし、誤った決断を下し、結果として過ちを招きます。故に心に常に一つの知を保つ時、次第に智慧の認知が生起し、自らを変革する所以であります。
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