衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年04月11日    日曜日     第2開示 合計3291開示

一つの知を保ち、正知にして住する結果は何か

常に一つの知を保つこと、これが四念処経において仏陀が説かれた観行の方法です。一つの知を保つとは、意識の自証分であり、法を知り、絶えず観察し続け知り続けることです。つまり、意識を観察対象の一処に拘束し、心を散乱させず、禅定の状態に置くことです。意識が散乱せず一法に定まるため、意根は意識を引き動かせず、自らも一法に定まらざるを得なくなり、もはや多くの法に縁って散乱することはできません。すると意根は意識が観察し知る法を知り、その法を思量するようになります。時を経るにつれてその法の本質が何であるかを明らかにし、真相を発見し真理を悟るのです。これは意識の知から意根の知への過程であり、また法を証得する過程でもあります。意識の知は解であり、意根の知は証です。ゆえに法の証得は必ず意根による証なのです。

意根が法を知り証得して初めて実質的な作用力が生まれます。例えば、自ら犯した過ちについて、意根が知らず意識だけが知っている場合、次のような状況が生じます:意識は過ちを知っていながらも、繰り返し犯して改めません。もし意根が過ちを知れば、心を改めて過ちを正すでしょう。また、人に対する態度においても、人が真心から好意的か偽りであるかを見分けやすいものです。意識による人への態度は偽りであり、意根による人への態度こそが真心からのものです。

もし私たちが真に自らの過ちを改め、貪・瞋・痴の煩悩を降伏させたいと願うならば、常に覚知を保ち、自らの身・口・意の行いを省察し、長期的に冷静かつ客観的に観察し、局外に立って観察し、高い所から俯瞰して観察し続けなければなりません。そうすれば自らの過ちと貪・瞋・痴の煩悩を観察することができ、非常に不如法であると感じ、不如法な結果が非常に良くないことを知るでしょう。意根も自らの煩悩習気に気づいた後、思量を始めます。思量した後は利害得失と因果を秤にかけ、そして貪・瞋・痴を改め、以前のようには繰り返さないと決断するでしょう。

もし長期的に一貫して観察しなければ、意根を観察対象に定着させることはできず、意根は依然としてあちこちに縁を求めて散乱し、自らの煩悩を知ることができず、したがって煩悩を降伏させることもできません。これが正知正念を保つ結果であり、意根の覚醒を呼び起こし、意根に法を証得させることができるのです。

ある人々はなんと禅定を修めないで毎日観(ヴィパッサナー)を唱えていますが、このような観でいったい何を観ることができるでしょうか?例えば、一人で十人の子供の世話をする場合と、一人の子供に専念して世話をする場合とでは、その細やかさはどれほど異なるでしょうか?一人で十方向の敵を観察する場合と、一方向一箇所の敵に専念して観察する場合とでは、その細やかさはどれほど異なるでしょうか?一人で同時に十の問題を考える場合と、一心不乱に一つの問題を考える場合とでは、その深さはどれほど異なるでしょうか?もし禅定がなければ、意根は種々の法に縁を求めて散乱し、比較的価値ある一つの問題に専一に思考する心が生じません。その価値ある問題について如理なる観察と思量がなされず、正しく如理に認知することができず、合理的に如法に対処することができず、容易にいくつかの問題を見落とし、判断を誤り、結果的に誤りを犯すことになります。ゆえに心に常に一つの知を保つことで、次第に智慧の認知が生起し、自らを変容させることができるのです。

——生如法師の開示
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六・七識が身・口・意の行いに及ぼす作用

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父子合集経講話(二〇二)

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