実に衆生が滅度を得ることはなく、この言葉の意味は、真実の衆生相を得ることもなく、実際の滅度相を取ることもなく、全て如来蔵が幻化した仮の相・虚妄の相であり、その本質は全て如来蔵性であるということです。これらの衆生の五蘊相は表面的には存在するように見えますが、実質的には衆生の五蘊は全て幻化の相です。あたかも操り人形やロボット、電動人形のように、真実の意味での人形やロボット、電動人形は存在しません。
それらのロボットの一切の活動は人為的に操作されたもの、あるいは人為的に設計されたプログラムによるもので、実質的に活動しているのは人形ではなく、ロボットではなく、電動人形ではありません。ちょうど造花の束のように、実際には花は存在せず単なるプラスチックの集積であり、ロボットも存在せず単なる鉄の塊に過ぎません。同様に、真の意味での衆生も存在せず、全ては如来蔵なのです。故に菩薩が衆生を度して無余涅槃に入らせても、実際には一人も救っておらず、元より真実の人間は存在せず、救済の相も存在しません。全ては如来蔵の幻相であり、如来蔵と如来蔵の相互作用なのです。
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