如来蔵は組み合わせによって成るものではなく、構成体でもありません。組み合わせられるものは後天的に生じ形成されたものであり、生滅する性質のものです。しかし如来蔵は本来より存在し、生滅することなく、いかなる法も如来蔵を構成することはできません。むしろ如来蔵が一切の法を生じさせているのです。如来蔵は虚空の中に存在するのではなく、また五蘊と離れることもなく、五蘊のすべての作用の中に如来蔵の働きが伴っています。如来蔵は七大種子を送り出して五蘊を生じさせ、五蘊の身は如来蔵が送り出す六大種子によって形成されます。
如来蔵が五蘊十八界を生じさせるのは、直接種子を送り出して変化創造するためです。変化創造された後、如来蔵が再び五蘊十二処十八界の万法を顕現させる際には、すでに変化創造された外六塵を基盤として、五根を通じて六塵の相分を摂取し、内六塵を再び変化創造します。これによって我々は六塵の境界を了別することができるのです。つまり我々が知覚する内六塵の相分は、如来蔵が五根を通じて外相分に基づき、外相分を再び変化創造したものであり、これが六塵が心中に顕現する原理です。
如来蔵は外に際限がなく、身体を包み込むこともなく、内側で身体と重なることもありません。形のない如来蔵が形ある身体と重なることはなく、ましてや身体を包み込むことなどありません。なぜなら如来蔵には内外の区別がなく、あたかも虚空に内外がないのと同じだからです。如来蔵は世俗の法ではなく、我々は世俗の法の概念をもって如来蔵を見たり認識したりすべきではありません。このように如来蔵を探求する時、さらなる覆いや障害を増やすことはないでしょう。
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