唯識とは三つの能変識に他ならず、これら三つの能変識によって顕現されたものである。唯心とは如来蔵の真如心を指し、一切の法は如来蔵の真如心より変造され生じたものである。
他者の識が単独で変現する法は、他者の色身五蘊のみである。それ以外の法は、衆生の識が共同で変現したものか、あるいは個人の識が単独で変現したものである。そして他者が単独で変現した五蘊身心に我々が接触し目にする時、それは即ち我々自身の識が単独で変現した法である。唯識の識とは三つの能変識を指し、我々衆生が接触し認識し得る一切の法は、例外なく自らの三能変識が単独で顕現したものであることを示す。
第六・七識と五識にとっては外境が存在し、第六識が了知するのは内境である。しかし如来蔵にとって、いかなる法が如来蔵の外に存在し得ようか。禅宗の祖師は常に「心外に法なく、目に満ちるは青山」と説かれた。これは如来蔵の心の外に一切の法は存在せず、青山などの一切の法は全て如来蔵自心の所産であることを意味する。
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