仏道を学ぶ過程で、多くの人々が絶えず妄念と戦い、妄念を消し去れば仏法を悟れると思い込んでいる。しかし、たとえ百年間妄念と戦ってこれを制圧したとしても、結局は仏法を理解せず、智慧も生じず、解脱も得られないのである。
正しい修行方法は、意根(マナス)の注意力を仏法への思惟に向けることである。そうすれば妄念は自然に減少する。注意力を転換し、執着の対象を切り替えれば、修行は速やかに成就する。妄念の是非にこだわり続けることは、仏法の修行と智慧の獲得に何ら寄与しない。最も直接的な方法は、心が執着する対象を転換することである。世間法への執着から仏法へ、関心を移し、貪愛の対象を変え、世間の小賢しい分別知を仏法を観察する智慧へと転換すれば、たちまち定慧(禅定と智慧)が現前する。悟りが開けないはずがない。仏道に長けた者は、妄念を押さえつけるのではなく、これを活用して仏法を思惟する念へと転換すべきである。念念仏法に心を留め、念念仏法そのものとなれば、定慧は自然に成就する。
もし日々妄念と戦い続けるなら、それは外道の修行法と変わらず、そもそも外道の深遠な禅定には到底及ばない。かつて外道たちは禅定を修め、四禅八定を成就し、五神通も得た。しかし未だ我見を断じておらず、五蘊十八界のいずれかの法を「我」として実在と認め、邪見・倒見は微塵も破られていない。この邪見に基づく限り、生死輪廻を免れないのである。
たとえ八万劫もの長きにわたり禅定に入ることができても、八万劫を経て定から出れば、依然として三悪道に堕ち、生死輪廻の苦しみから逃れられない。衆生は「我」という邪見に執着して業を造り、生死輪廻するのである。もし我見を断ち切れば、自らを縛る結び目が解け、三悪道に堕ちない保証が得られる。修行において邪見を破り正知見を得ることは極めて重要である。そうしなければ、無量劫修行しても依然として邪道を歩み、正路に戻れず、解脱も得られない。
福徳が具わり、目標が正しく、方法が適切であれば、悟りを開くことはさほど難しいことではない。各人の素質は異なり、修行方法も異なる。幼少期から清浄を好み、独処を楽しみ、趣味嗜好が少ない者は、禅定の修行が比較的速やかである。座禅を組まなくても心の散乱が少なく、精力が集中しているため、仏法に出会えば専心して仏法を思惟し、深く仏法に入ることができる。仏法の正知見をしばらく熏習した後、正知見を得れば、参禅の方法を理解し、自ずと参禅を始める。逆に、十年二十年と座禅を組んでも、依然として仏法に専心して思惟できず、仏法を観る方法が分からず、法の正邪や次第を弁別できない者もいる。
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