善心所法:信、慚、愧、無貪、無瞋、無癡、精進、軽安、不放逸、行捨、不害。
これに対立する不善心所法は:不信、不慚、不愧、貪、瞋、癡、不精進、不軽安、放逸、不行捨、害である。
意根は十一善心所と相応せず、必ず不善心所と相応する。二者必ずその一にあり、そうでなければ論理に合わない。例えば馬が白色であるならば、白色でないものではなく、二者必ずその一に立つ。人が善であるならば不善ではなく、二者必ずその一に立たねばならず、そうでなければ論理に合わない。
それでは意根は果たして善心所法と相応するのか、それとも相応しないのか。あるいは両方相応するのか、つまり善でも不善でもあるのか。もし意根がこの十一善心所法と相応しないなら、それは合理的か。もしそうなら、意根は不善心所法と相応することになり、すなわち不善心所法:不信、不慚、不愧、貪、瞋、癡、不精進、不軽安、放逸、不行捨、害を有し、貪瞋癡の煩悩を具えることになる。そうするとこれは前後矛盾ではないか。修行は成就し得るのか。
六転呼は染浄依なり。六識の染と浄は意根によってある。意根が染まれば六識も染まり、意根が浄ければ六識も浄くなる。
この言葉の寓意は深いのではないか。意根が生来ある種の煩悩を有さなければ、六識は意根に依って煩悩を有し得るのか。意根が生来ある種の煩悩を具えていれば、六識は意根に依って単独に清浄となり得るのか。もし六識が単独に清浄となり得るなら、なぜ「六転呼は染浄依なり」と言うのか。
仏法を学ぶ者は、大乗法を修めようと小乗法を修めようと、心はますます清浄になり、ますます善法と相応し、心はますます無為になるべきである。
もし修学をしばらく経て後、六識が全て善法と相応するようになっても、意根がまだ善法と相応できないなら、意根を薫染することに成功しておらず、修学に初步的な成功を見ていない。それでは意根は依然として主となり六識を指揮して意根に相応する不善法を造作し、身口意行は清浄に変わり得ず、我見を断じ心を明らかに証悟することもできない。もし意根が十一善法と相応しないなら、仏法を学ぶことは失敗であり、如来蔵に善法の種子を貯えることができず、後世に善業の果報を受けることができない。
意根が薫染に成功していなければ、夢中の全ての心行は意根の心行であり、意識は主となることができず、必ず意根に随って流転し支配され、死亡時の状況と同じである。それでは夢中で人を殺し家を焼くこと、悪意の報復、人と大いに手を出すなどの染汚瞋恚の業行は、全て意根と相応するのか。もし意根にこれらの染汚した貪瞋癡の心行がなければ、どうして夢を作り出せようか。しかも夢中では意識が意根を説得できず、往々にして意根の波に随って流され、死亡中有の情況と同じである。夢中にどのような煩悩があるかは、目覚めた時の意根にどのような煩悩があるかを示す。夢中の心行が善十一と相応するなら、清醒時の意根も善十一と相応しており、そうでなければ善十一と相応する業行を作り出せない。
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