衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月27日    木曜日     第2開示 合計1133開示

意根倶生の人我執と法我執

いわゆる倶生(くしょう)とは、五蘊(ごうん)が生まれながらにして持っているものであり、五蘊とともに現れるものであり、前世から持ち越されたものであり、新たに学んで現れたものではなく、後天的に薫習(くんじゅう)されて生じたものではない。倶生の人我執(にんがしゅう)とは、五蘊とともに現れる人我執を指し、前世の執着の習気(じっけ)が今世に持ち越されたものである;倶生の法我執(ほうがしゅう)とは、五蘊とともに現れる法我執を指し、前世の執着の習気が今世に持ち越されたものである。

第七識は連続する識であり、無始劫(むしごう)以来、断滅したことが一度もない。各五蘊が新たに生まれる際、第七識は新たに生じる必要がなく、依然として前世から続いてきたものであるため、その習気・慣性・秉性(へいせい)は前世と同じままで変化がない;その全ての認知は前世と同じであり、変化がない。第七識は何を認知するのか。第七識は五蘊を認知し、五蘊が自分であると知る;十八界(じゅうはっかい)を認知し、十八界が自分および自分が所有するものであると知る;第七識は第八識に依拠して一切の法(ほう)を認知し、一切の法が全て自分であり、全て自分が所有するものであると知る。第七識がこのような認知を持っているため、これらの法が全て自分ではなく、全て第八識が顕現(けんげん)させた仮の法であることを知らない。そのため、五蘊・十八界の法に対して貪執(とんしゅう)を持ち、第八識が引き起こした一切の法に対して貪執を持つ。

第七識である意根(いこん)は、前世において五蘊と十八界を自分であると執着し、今世で生まれたばかりの時、あるいは母胎内にいる時でさえ、依然として五蘊と十八界を自分であると執着する;前世の意根が一切の法を全て自分であると執着したように、今世で生まれたばかりの時も依然としてそのように執着する。したがって、意根の人我執と法我執は、五蘊が生まれながらにして具えているものであり、現に学んだり現に薫習したりする必要がなく、第八識以外のいかなる法にも依拠することなくこれらの執着を持つ、すなわち六識や生存環境に依存せずに単独で具え、かつ刹那(せつな)ごとに現行(げんぎょう)し得ると言われる。

——生如法師の開示
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