衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月29日    火曜日     第3 回の開示 合計558回の開示

意識の薫習と意根の親証

意識は常に意根を熏習し、意根の固有の認識と観念を変革せんとする。意識が一切法を理解するのは難しくないが、真に困難なのは意根の理解と認識である。意根の観念を変革することは極めて困難であり、一旦その観念が変われば、証果は掌中の物となる。明心見性や各種の観行成就もまた掌中の物となる。意根が一旦証果すれば、その思想観念も瞬時に変容する。

意識による理解と意根への熏習が前提条件であり、その後続の作業、即ち最も重要な作業は、意根自らが参究思量を行い、その後初めて自証を得るのである。この前提なくしては全て解に留まる。

古語に云う「三歳の童子は説くこと能うも、八十の老翁は行うこと能わず」。ある者は言葉では仏地の境地に至り、仏の証量を自らの証量の如く語るが、真に自証を得て実践する時、既に仏となっている。即ち理解は容易なりとも、真の証得は難中の難である。故に聖人は稀なるが故に甚だ稀なり、書籍を二、三冊読み解いただけで聖人が忽然と現出するようなものではない。

——生如法師の開示
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