第六識には倶生の人我執はあるのか。もし第六識が第七識のように五蘊が生じたばかりの時に前世と同じ認識を持つなら、当然前世と同じ執着性も持つはずである。もし第六識が生まれながらにして倶生の人我執を持つなら、後天的な教えや薫習を必要とせず、まず五蘊の存在を知り、かつそれが「我」であることを認識し、必ず十八界の存在を知り、かつそれが「我」であることを認識しなければならない。第六識は生まれたばかりで教えを受けずに五蘊の存在を知るのか。第六識は生来、教えや学習なしに十八界の存在を知るのか。五蘊(色・受・想・行・識)の機能作用を認識しているのか。十八界(六根・六塵・六識)の機能作用を認識しているのか。自己と他人の区別がつくのか。自己と他人の概念を持っているのか。我相・人相・衆生相・寿者相があるのか。もし第六識が五蘊十八界の全ての法に対する認識を持つなら、人我執が存在する。もしこれらの法に対する認識がなければ、第六識には人我執が存在せず、執着しようとする心の働きもなく、たとえ執着しようとしてもその能力がない。
法執の内容は我執の内容よりもさらに広大で、その意味はより深遠で理解しがたい。意識が生まれたばかりではいかなる法も認識しないため、執着することはできない。例えば、意識が財・色・名誉・飲食・睡眠に執着するには、まずそれらが何であり、いかに重要かを認識しなければ執着が生じ、執着する能力が得られる。もし意識が財色名食睡が何たるかを知らなければ、執着する心の働きはなく、執着の有無を論じる余地もない。また、意識が権勢や地位、豊かな生活に執着するには、まず権勢や地位が何であり、いかに重要か、その意義は何かを理解し、生活を享受することを知って初めて、これらの法に執着し、貪愛の心行が生じる。もしこれらの法について全く無知であれば、執着することはできず、また執着する能力もなく、執着の有無を論じることもできない。したがって、生まれたばかりの意識には法我執がなく、執着することを理解せず、意識には倶生の、生来のいかなる執着も存在しない。これには人我執と法我執の両方が含まれる。
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