衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月28日    金曜日     第1開示 合計1136開示

経典が読めない場合でも法に従うことはできるでしょうか

衆生が修行をある段階に至らず、智慧が生起しないうちは、経典を理解することは不可能である。多くの人は仏経を理解したと思い込んでいるが、実際にはただ文字面をなぞっているだけで、釈尊が伝えようとした思想とは程遠い。人は自分を信じすぎると、往々にして自らを誤る。仏は『四十二章経』で「汝の意は信ずべからず、阿羅漢果を証して初めて汝の意を信ずべし」と説かれた。これは声聞の弟子たちに向けた言葉である。大乗の菩薩弟子たちに対してなら、仏はおそらく「汝の意は信ずべからず、如来蔵を証得して初めて汝の意を信ずべし」、あるいは「唯識の種智を具え、如来の家に入って初めて汝の意を信ずべし」と言われたであろう。なぜならこの境地では、すでに諸法の実相を証得し、智慧が開発されてかなり深く透徹しているからである。それ以前の衆生は、少なくとも択法眼を得るまで修行を積み、初めて法の正誤を弁別できるようになる。択法眼があって初めて択師眼が生まれ、この二者は相互に依存する。目に見えるところ、ほとんどの衆生は択法眼を得る段階に至っておらず、判断すべき法と師の双方を誤って判断している。師の判断は名声に基づき、外相に依存しており、師の智慧に基づくものではない。なぜなら自らに智慧がなければ、師の智慧の深浅も見抜けないからである。衆生が自らを過信するか、師を過信するかは、いずれも自らを誤らせる。善く法を思惟し、善く師を弁別し、自らの智慧の水準を正しく判断すべきである。最も重要なのは福徳を多く修め、福徳が具われば誤りは減り、智慧が生じる。

短い『般若心経』はわずか260字余りであるが、十人が読めば十通りの解釈があり、百人が読めば百通りの説明がある。皆が「法に依りて人に依らず」と言うならば、大乗法を学ぶにはまず『心経』に依止すべきである。『心経』は大乗法の総綱であり、『心経』を理解して初めて菩提を証悟しやすい。現状のように一人ひとりが異なる理解をしている状態で、どうして『心経』に依止できようか。皆が自らは法に依っていると思いながら、法に対する理解が誤っていれば、どうして真に依止できようか。皆が自らの理解が正しいと思い、正しい法はただ一つであるのに、百人が百通りの理解をすれば、おそらく九十九人の理解は誤っている。これではどうして法に依止していると言えようか。仏は至る所で真空妙有を説かれるが、一部の人は真空を否定し、一部の人は妙有を否定する。この両者の知見は本来矛盾対立しているのに、互いに融合し合い、互いに肯定し合う。奇妙ではないか。なぜこのような状況が生じるのか。その原因は、衆生が皆、自らの知見が実際にどういうものかを理解せず、法に対する弁別力を持たないからである。それゆえ現在、邪見が盛んになり、邪法が広く流布し、衆生はこれに気づかず知らない。末法の時代、衆生の福徳は薄く、進んで誤った導きを受け入れている。衆生の福徳が修持されなければ、未来の正法は危ぶまれ、急速に滅び去る恐れがある。その時、衆生はさらに熱悩の中に陥り、自ら抜け出せなくなるであろう。

真空とは、すなわち如来蔵のことであり、真実でありながら性は空であり、心体には一法もないのに一切の法を変現しうる。妙有とは、五蘊十八界の法相は存在するが実質は無であり、すべて如来蔵が変現した虚妄の法である。虚妄の法も存在しないとは言えない。なぜなら衆生は刹那ごとにそれを使い、五蘊で食事をし衣服を着て歩き、五蘊で生活しているからである。衆生は虚妄の十八界の中に生き、見るのは仮の色、聞くのは仮の声、嗅ぐのは仮の香、味わうのは仮の味、感じるのは仮の触、識るのは仮の法である。見・聞・嗅・味・触・識はすべて五蘊の作用である。ゆえに五蘊の表面的な存在現象を否定することはできない。五蘊は真実の存在ではないが、虚妄の存在というこの方式はなお残っている。皆は明らかに毎日五蘊を使っているのに、それでも五蘊は存在しないと言う。心から五蘊が確かに虚妄であると認められるようになれば、それで良い。すなわち我見を断ち、阿羅漢果を証得したのである。願わくは衆生も皆そうあらん。しかし五蘊の虚相を否定して存在しないとすることも、我見を断つことにはならない。なぜなら五蘊十八界の虚妄を観行できなければ、証果できないからである。

——生如法師の開示
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