一切の事物を知ることのできる心を「能知」と申します。この能知性は、阿頼耶識がなければ根本的に存在しません。所知、即ち我々が知る六塵万法も、阿頼耶識がなければ現前に出現せず、我々は六塵の境界を知ることができません。能知は七識心であり、所知は知られる六塵境界で、これら二者は共に阿頼耶識より生じたものです。故に阿頼耶識を「所知依」と称し、我々は阿頼耶識に依って初めて能知と所知を有し、活発な五陰世間の存在を得るのです。
六根は阿頼耶識の所生、六塵は阿頼耶識の所変、六識もまた阿頼耶識の所生であり、衆生の仮我たる五陰十八界の全体は悉く阿頼耶識の変生と執持によるもので、五陰自体に何ら関わるものではありません。全ては阿頼耶識自らが一切を操り、魔術師自らが戯れる如く、幻影を次々と顕現させているのです。この観行を完全に体得し、深く微細にこの理を現観すれば、既に初地に至っています。そうなれば全ての衆生が眼前に現れても見えるのは幻影ばかりで、実体ある衆生はおらず、父母が眼前にいても真実の父母はなく、親族眷属がいても真実の親族眷属はなく、我も人も衆生も寿者もなく、実体ある一切の法は存在しないと悟るのです。
三界世間は静寂で空虚、全ては阿頼耶識という魔術師が一切を操り、阿頼耶識という絵師が墨を飛ばし筆を振るい、色鮮やかな五陰世間を描き出しているのです。
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