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日常法話

2018年05月20日    日曜日     第1開示 合計517開示

如来蔵は去った後に来て先に立つことができるか

去后とは、最後に五陰身と分離すること、最後に色身を離れて、その後色身が死体となることを指します。来先とは、最初に先に色身の中に到達し、胚を五陰身とし、生命の価値を持たせることを指します。如来蔵 (tathāgatagarbha) が去后・来先を成し得るかどうかは、如来蔵が単独で身を保持し得るかどうかを明らかにしなければなりません。

如来蔵は単独で身を保持できるでしょうか。もし如来蔵が単独で身を保持できるなら、無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) の中でも、如来蔵は意根の存在を必要とせず、意根の推進力を必要とせず、単独で身を保持できるはずです。もし如来蔵が意根に依存することなく単独で身を保持できるなら、涅槃は寂静なものではなくなり、涅槃の境地もなく、無余涅槃と言うべきものもなくなってしまいます。

実際には、如来蔵と意根は相互に依存する関係にあり、意根の推進力がなければ、如来蔵は五陰十八界の世間において運行せず、如来蔵は単独で作動することは不可能です。如来蔵は作主識ではないので、一切の法に対して能動的に攀縁し変現する心行を持たず、意根と業力・願力の推進の下でのみ、世間法を現起することができるのです。

そして業力と願力こそが意根の推進力であり、意根に推進力がなく、これ以上五陰身を生じさせたくないとき、如来蔵は一切の法を滅し、五陰身を現起せず、意根本身さえも滅して、再び現起しません。意根に業力と願力があるとき、如来蔵は意根に随順し協力して、相応する世間法を現起することができるのです。如来蔵の運行は刹那たりとも意根を離れられず、意根の業力と願力を離れられません。共業の衆生のすべての如来蔵が宇宙の器世間を変造するときでさえ、共業の衆生の共同の業力によって推進され、共業の衆生のすべての意根が共同して推進する働きがあるのです。

衆生の現世(げんせ)の縁が滅し、身を捨てるべきとき、もし如来蔵が最後に色身を離れるのであれば、意根は如来蔵に先立って離れたことになりますが、このような状況は起こり得るでしょうか。もし起こり得るなら、意根は先に去って如来蔵と分離し、この場合、意根は単独で存在することになります。意根は如来蔵の執持を必要とせずに、単独で存在できるでしょうか。もしそうなら、意根は如来蔵が識の種子を出力することも、如来蔵が出生することも必要とせず、ではこのとき意根は存在して滅しないことができるでしょうか。もしできるなら、意根もまた不生不滅の、単独で存在できる識心ということになり、不生不滅の識心が二つあることになります。実際には、これは不可能であり、意根は常に刹那たりとも如来蔵に依存して存在し運行しており、如来蔵を離れれば意根はたちまち滅亡し、運行できなくなります。

したがって、意根は如来蔵に先立って色身を離れることも、如来蔵より後に色身を離れることもできず、必ず如来蔵と同時に離れなければなりません。なぜなら両者は相互に依存する関係にあり、誰も誰からも離れられず、もし分離すれば一切の法は消失し、如来蔵だけが残ることになり、それが無余涅槃の境地ですが、死亡後は無余涅槃と等しいわけではありません。

では、如来蔵は最初に色身の中に来ることができるでしょうか。それもできません。如来蔵は単独で色身を執持することができず、攀縁性を持たないので、色身を攀縁して能動的に色身を出生し執持しようとはせず、意根の思心所の影響を受け、意根と業力の推進作用を受けて、意根に随順して刹那に受精卵の中に入り受精卵を執持し、意根と同時に母胎に入ります。意根と如来蔵は形影の如く離れず、如来蔵と意根は形影の如く離れず、刹那たりとも分離できず、分離すれば意根は滅亡し、如来蔵は五陰の世間法を運行できなくなるので、如来蔵が色身を離れる問題も、如来蔵が色身に入る問題も語れなくなります。

もし如来蔵が最初に母胎に入るなら、意根と分離することになり、意根は如来蔵の執持を必要とせず単独で存在できることになりますが、これは不可能です。したがって、母胎に入るときも、色身を離れるときも、先後はなく、意根と如来蔵は同時に入り同時に離れます。もし先後があれば、両者が相互に分離できることを意味し、意根は単独で存在でき、如来蔵も単独で運行できることになりますが、これは事実と真理に合致しません。

——生如法師の開示
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