去るは後に来るは先の識とは如来蔵を指し、主君として働くのも如来蔵である。去るとは五蘊が滅する時、如来蔵が最後に色身を離れ、自ら色身を執持しなくなると、色身は死体となり、同時に如来蔵は他の衆生の如来蔵と共に死体を執持し、死体に生住異滅の変化を生じさせ、一定の時劫を経て全て消失する。死の際には五識が先に滅し、次いで意識が徐々に滅し、意根は生きる望みが無いと感じると直ちに離れるのであって、滅するのではない。同時に如来蔵は単独で身を執持できず、色身を離れるが、この「離れる」は方便の言葉であり、これ以上適切な表現が無い故に用いざるを得ない。
来るとは最初の受生を指す。衆生が中有において胎内に入る時、如来蔵が受精卵に入住するのであり、これは意根に牽引されて入るもので、意根もまた入住する。これによって五蘊最初の名色が生じ、名色五蘊が具足すると嬰児として出生する。如来蔵が入住しなければ受精卵は成長できず、名色も五蘊身もなく、衆生も存在しない。ここでの「入る」と「来る」も方便の言葉であり、意義を表すために用いざるを得ず、これに代わる適切な語彙が存在しない。
如来蔵は衆生の主君であり、生生世世にわたり衆生の五蘊身を造り、これを執持し、衆生の身口意の行いを記録保存し、業種を出力し、衆生の業因果報を実現する。如来蔵は衆生が三界六道を輪廻する主体識であり、衆生が輪廻を脱し仏道を成就する主体識である。
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