しかしながら、私たちが前世の情報を感知できる場合がありますが、それはいかにして可能なのでしょうか。これこそ如来蔵に依拠するのです。如来蔵に蓄えられた業種が熟し、現行する縁が具足すれば、業種は現行を開始します。意根が縁を攀じるか否かに拘わらず、業種が現行して法塵となり、意根がこれに触れることで、意識に一定の感知力が生じます。前世で熏習した内容も、意根が縁を攀じて意識に了別させます。すると意識は同類の内容に触れるや、労せず速やかに理解し記憶するのです。あたかも慣れた道を行くが如くです。
前世で熏習した法は、今世で触れるや速やかに相応します。例えば前世で頻繁に『楞厳経』を読誦した場合、その読誦という業種が如来蔵に蓄積されます。今世で楞厳経に触れると、読誦が極めて馴染み深く順調に進み、読み進むうちに暗誦できるようになります。これは今世初めて楞厳経を読誦するのではなく、前世ですでに熏習があったことを示します。前世に読誦した業種が縁熟し、意根が縁を攀じると、意識心はそれに随って受用を得ます。楞厳経の学習が極めて迅速に進み、速く読み、堅固に記憶し、自然に暗誦できるのです。文句や意味が非常に親しく感じられ、今世の仏道修行が前世の業種と連動するのです。
今世で『般若心経』を読誦し暗誦できるようになれば、この種子も如来蔵に蓄えられます。暗誦後、再び心経を誦する際、「観—自在—菩薩、行—深—般若—波羅—蜜多—時」と一字一句、一音一音が如来蔵の蔵から取り出された法塵であり、意根を経て意識心が受用します。これにより意識に記憶能力が生じ、心経を暗誦できるのです。意識が学習し暗誦した内容は自ら保存できません。自らは生滅する存在であり、業種を保存する機能を持たないからです。仮に保存できたとしても、意識が滅すれば失われます。意識は自在ではなく、保管能力を有さないためです。故に如来蔵のみが保存可能です。如来蔵は永遠に消滅せず、極めて安全確実に保存され、種子が失われる心配はありません。
如来蔵に蓄えられた種子は、意識心が必要とする時に取り出されます。この時、意根を介在させねばなりません。意識心が心経を暗誦したいと欲する時、この欲望が意根に伝達され、意根は了知した上で心経暗誦を決意します。すると思心所が生起し、如来蔵が意根の思心所を了別することで、心経暗誦の種子が送り出されます。意識が法塵を了別すれば、自然に心経を暗誦できるのです。一字一音が自然に現出します。
もし心経が不慣れで暗誦できない場合、暗誦の種子が存在しないため、暗誦しようとしても文字や音節が現れません。最初の一文字、二文字、三文字、四文字までは出るかもしれませんが、その後は出てこないでしょう。私たちが保存していないため、如来蔵の蔵に暗誦可能な業種が存在せず、如来蔵自ら種子を創出できないからです。蔵に品物がなければ、当然取り出して受用することは叶わず、経本を開いて読み上げざるを得ません。
(以下、原文の繰り返し部分につき同様の翻訳を適用)
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