衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年05月19日    土曜日     第2開示 合計514開示

如来蔵と記憶の関係(二)

しかしながら、私たちが前世の情報を感知できることがあるのは、いかにしてでしょうか。これこそ如来蔵に依るのです。如来蔵に蓄えられた業種が熟し、現行の縁が具足すれば、業種は現行に現れます。意根が縁を攀じようと攀じまいと、業種が現行して法塵となれば、意根がこれに触れ、意識は一定の感知力を得るのです。前世で熏習した内容も、意根が縁を攀じて意識に了別させます。そこで意識が同類の内容に触れれば、労せず速やかに理解し記憶するのです。あたかも慣れた道を行くが如くです。

前世で熏習した法は、今世で触れるや速やかに相応します。例えば前世で楞厳経を読誦し続けたという業種が如来蔵に蓄えられていれば、今世で楞厳経に触れる時、読むことが極めて馴染み深く、順調に進み、読むうちに暗誦できるようになります。これは今世初めて楞厳経を読誦するのではなく、前世ですでに熏習していたことを示します。前世に楞厳経読誦の業種があれば、縁が熟した時、意根が縁を攀じ、意識心はそれに随って受用を得ます。楞厳経を学ぶことが極めて迅速に進み、速く読み、確実に記憶し、自然に暗誦できるようになります。文句や意味が非常に親しく感じられ、今世の仏道修行が前世の業種と繋がるのです。

今世で心経を読誦し暗誦できるようになれば、この種子も如来蔵に蓄えられます。暗誦後、再び心経を誦する時、「観-自在-菩薩、行-深-般若-波羅-蜜多-時」と一字一句、一音節ごとに、これらの法塵は皆如来蔵の蔵庫から取り出され、意根を経て意識心が受用します。こうして意識が記憶能力を得て心経を暗誦できると言えるのです。意識が学習し暗誦したものは自ら保存できません。自らは生滅するものであり、業種を保存する機能を持たないからです。仮に保存できたとしても、意識が滅する時には失われます。意識は自在ではなく、保管能力がないためです。故に如来蔵のみが保存できるのです。如来蔵は永遠に消滅せず、そこに置かれて極めて安全確実で、如来蔵が滅して種子を失う心配はありません。

如来蔵に蓄えられた種子は、意識心が必要とする時、取り出されます。この時は意根を介さねばなりません。意識心が心経を誦したいと欲する時、この欲望は意根に伝達され、意根は了知して心経を誦することを決意します。そこで思心所が生起し、如来蔵は意根の思心所を了別して、心経暗誦の種子を送り出します。意識が法塵を了別すれば、自然に心経を暗誦できるのです。一字一音節が現れ出ます。

もし心経が熟達せず暗誦できないなら、暗誦の種子が存在せず、誦そうとしても文字や音節が出てきません。最初の一字、二文字、三文字、四文字までは出ても、その後は出てこないでしょう。私たちが保存していないため、如来蔵の蔵庫に暗誦可能な業種がなく、如来蔵自ら種子を作り出せないからです。蔵庫に品がなければ当然取り出して受用できず、本を開いて読み上げざるを得ません。

(以下、原文の繰り返し部分は同様に翻訳されますが、冗長を避けるため割愛いたします)

——生如法師の開示
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