仏法の概説は、一切の法が真如を中心に展開され、成仏の道に通じ、法法ことごとく真如から離れないというものである。世尊が生涯説法された内容はすべて本心如来蔵を中心としており、心を離れて法は存在せず、すべての法が指し示すところも如来蔵真如である。小乗の阿含経においても如来蔵が暗示されており、時に明示的に説かれる場合もある。例えば仏は「法は如より離れず、法は如に異ならず」と説かれた。この「如」とは如来蔵を指し、ここでの「法」とは五陰の法、十八界の法を指す。仏はまた「五陰は我にあらず、我に異ならず、互いに在らず」と説かれた。この「我」は如来蔵を指し、阿羅漢の無余涅槃には如来蔵のみが存在する。
四聖諦の理は如来蔵から離れず、苦諦は如来蔵から離れず、如来蔵によって存在する。衆生が業を造った後、縁が熟する時、苦の種子が如来蔵より出力され、衆生は苦報を受ける。苦集諦は如来蔵によって存在し、衆生が造った業の種子は如来蔵によって収蔵される。苦滅諦は如来蔵によって存在し、滅するのは如来蔵中の苦の種子である。道諦は如来蔵によって存在し、如来蔵を離れては衆生は修道できず、修行に必要な一切は如来蔵によって提供され、修行によって生じた善法の種子は如来蔵によって収蔵され、未来において修行を継続することができる。
中乗の十二因縁法は如来蔵から離れず、如来蔵によって身口意の種子が収蔵され出力され、如来蔵によって名色の種子と六入の種子が収蔵され出力される。十二因縁の各支はすべて如来蔵によって存在する。また辟支仏が因縁法を逆推する時、最後に識に至って還り、それを超えることができない。名色の源を推し進め如来蔵に至ると、それ以上推し進められなくなり、最終的に「名色は如来蔵から出生した」という結論を得る。世尊は「識は名色を縁とし、名色は識を縁とする」と説かれた。これは如来蔵が名色によって顕現し、名色が如来蔵によって出生し作用することを意味し、二者は相互に依存し合うのである。
大乗法はさらに至る所で如来蔵の機能・体性・作用を中心に展開され、如来蔵がなければ菩薩の六波羅蜜万行も存在しない。あらゆる修行は如来蔵から離れず、あらゆる法は如来蔵から離れず、仏果を成就するまで全て如来蔵に依って修行し、かつ修行の業種を収蔵することで、未来に円満に仏道を成就することができるのである。
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