衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年05月07日    金曜日     第2開示 合計3380開示

戒定慧斉修の実例

<h2 style="text-indent: 2em;">耀霊の止観日誌:</h2>

1、ここ二日ほど休暇で外出して親戚回りをしたが、毎日できる限り白骨観を提起し、白骨のイメージを心に掛けて観想した。人と接する時はいつも淡々とした心持ちで、礼儀にかなっていればよく、言葉少なに、情緒の動きを減らし、多くの煩悩を減らすことができ、事が過ぎても引きずらなかった。 

2、昼間あまり煩悩に染まらなければ、夜に座禅をして目を閉じた時、自分の心がそれほど乱れておらず、身心もそれほど緊張していないことに気づき、観呼吸も念仏 (buddhānusmṛti) も容易に状態に入れる。昼間に心に執念が多すぎると、水が氷に凝り固まったようになり、夜の座禅で氷を水に溶かすには、また多くの功夫を費やさなければならない。 

3、「観身不浄」が因ならば、「無我相・無人相・無衆生相」はまさにその果ではないか。『金剛経』のここはまさに「観身不浄」を説いているのではないか。人我の相が無いのであれば、貪瞋痴には根本がなく、誰に対して貪瞋慢を起こすのか。心は容易に平淡で安定したまま保てる。

4、『楞伽経』には、このような不浄観・白骨観は「愚夫所行禅」だと言われている。私はまさに愚夫なのだから、このような正念をもっと提起すべきである。 

評:この修行は戒定慧を完璧に融合させたものであり、効果が非常に良く、定も慧もはっきりと現れている。戒の現れは、心が念を起こさず、煩悩を起こさず、人と接する時に礼儀にかなっており、心持ちが淡泊で平和であること。定の現れは、心持ちが淡く、心が乱れず、観呼吸と念仏 (buddhānusmṛti) が素早く状態に入れられること。慧の現れは、一つには素早く観行 (vipaśyanā-caryā) の状態に入れられること、二つには金剛経と楞厳経の中の理を用いて照らし合わせて薫習し、自分を降伏させ、禅定の功夫を素早く高められることである。慧をもって定を導き、定をもって慧を生じさせ、定慧円融を做到している。このような修行は正軌に入ったのであり、戒定慧がさらに強化された後には、断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) に目処が見えてくる。 

多くの人が修行において戒を守れず、境に対して心が数々に起こる。心が起こす煩悩の多くは、他人が身に加えたものではなく、自分が理由なく煩悩を起こし、空の境界の上に法を実有と見て執念を生じさせ、人我是非が絶えないのに、自らはそれを自覚せず、他人が注意してくれると、服さないばかりか、嫌悪を生じ、怨み言まで言う。これは修行からまだ遠く、我性が重すぎる。このように戒を守らない結果として、禅定はどうやってもうまく修められず、世俗法と仏法のいずれにおいても智慧が無いことになる。だから煩悩は智慧の天敵である。

——生如法師の開示
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