色はすなわち色蘊であり、五蘊の一つである。相貌・形体・色彩を有し、顕色・形色・表色・無表色を含む。このうち後三者は法処所摂色である。顕色とは青・黄・赤・白を指す。形色とは大・小・方・円・長・短・広・狭を指す。表色とは色の形状や姿態、身体の運動や動作、行く・来る・去る・止まるなどを指す。無表色とは色相に現れる美しさ・醜さ・魅力・趣・気品・学識・教養・平静・憤怒・明朗・情熱などを指す。法処所摂色とは色・声・香・味・触の上に現れる法塵であり、意根に対応し、意識によって認識されるものである。色にはさらに衆生色、男女の色相、宇宙の山河大地、植物鉱物、家屋宮殿などの無情物も含まれる。
『金剛経』には「若し色をもって我を見、音声をもって我を求むれば、この人は邪道を行じて、如来を見ることを得ず」と説かれている。これは、如来(法身仏・真仏)に会おうとするならば、色相や声相をもって求めてはならないという意味である。色や声などの六塵の相を有するものは真仏ではなく、報身仏・応身仏・化身仏である。三十二相八十種好を具えるが、これは化現した有生有滅の仏である。魔王波旬でさえ福徳の力によって仏の相貌を化現することができる。仏が涅槃に入った後、第四祖優波鞠多は波旬に釈迦仏の身相を化現させて目撃拝観させた。波旬は実際に仏の色相を化現し、林の中から歩み出て、後ろに多くの弟子を従えた。優波鞠多は一見して本物の釈迦仏と思い、思わず礼拝してしまった。波旬は礼拝に耐えきれず正体を現した。したがって如来に会うには色相に執着してはならず、色相によって見てはならないのである。
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