夢も想いもない時の主人公はどこにいるか、これは禅宗第三関の内容であり、第一関第二関を突破したか否かにかかわらず、この内容を詳細に語ることはできず、説明することもできません。もしそうすれば意識心の次元に堕してしまい、ただ理解するだけでは意根が証得することが難しく、仏法を学び禅を参ずる意義が失われてしまいます。第一関第二関を過ぎた後、禅定を修めて初禅を得、陽炎観を証得して初めて禅宗第三関に至り、第三関の参究を始めるのです。この段階では他人の解説を求めてはならず、この関を突破すれば三果人となります。参究を要するものは全て意根自らが直接参究し、自ら証得しなければならず、他人から聞いただけでは証得できず、仏道も修行を続けることができなくなります。
自ら第三関の内容を参究し、更に唯識の理論知識を理解すれば初地に入ることができます。しかし初禅の関は恐らく全ての人を難倒させるでしょう。以前私は初禅を修めて煩悩を断ち、無明の遮障を破れば初地に入る資格を得て真の仏子となれると期待していましたが、今となってはその望みはないようです。現代人が禅定を修めることがこれほど困難なのは、五欲六塵が人を強く引きつけるからであり、実は人が五欲六塵に執着しすぎているのです。境界は無心に人を引きつけるのではなく、人が有心で境界に趣くのであり、誰も自ら進んで五欲を捨て去ろうとしません。どうしようもないことです。
第一関の「死屍を引きずるのは誰か」という結論を公開したとしても、あなた方がその答えを知ったところで何の役にも立ちません。依然として究竟的にどのように死屍を引きずるのかが分からなければ、証悟することはできないのです。自ら参究せず、意根が相応しなければ、全ての答えを知り、最も詳細な解答を理解し、仏の境界を知ったとしても何の役にも立ちません。もしそれが役立つなら、私たちは皆仏経を読み、仏地の境界を研究し、共に速やかに成仏すれば素晴らしいではないでしょうか。実際には、私たちが知っていることは証得したことではなく、知るは易く証するは難いのです。一切法が夢幻泡影であると知ったからといって、既に一切法が夢幻泡影であることを証得したのでしょうか?仏地の境界を知ったからといって仏になったのでしょうか?そうではありません。凡夫が四果阿羅漢の修行境界を理解し語ったからといって、四果阿羅漢の修養があるのでしょうか?凡夫が如何に仏道を成就するかを説いたからといって、既に成仏したのでしょうか?そうではないのです。
要約すれば、多くの法を意識が容易に知り理解しても役に立たず、意根自らが証得しなければなりません。証得して初めて智慧解脱と成仏が可能であり、証得せずに美辞麗句を並べても何の役にも立たず、解脱を得ることはできないのです。
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