三界はただ心のみ、万法はただ識のみなり。穢土も浄土もすべて心の現じたる所、識の変じたる所なり。心を転じれば境界も転ずるが、ただ己が境界のみを転じ、他者の境界は転じ得ず。境界は各人が己が如来蔵の心内に現れる相なり、他者と関わりなし。自ら修行して心を転じ清浄にせし時、見る内相分の境界も転じ、当然感ずる外相分も清浄となる。識心が転ずる時、一切の境界もこれに従い転ず。
維摩経に説く、我らが娑婆世界は五濁の悪世にして、丘や窪み汚れ満ちたり。舎利弗は世尊が菩薩道を行じたる時、心清浄ならざるが故なりと疑えり。然るに世尊曰く「汝ら自らの心清浄ならざるが故、不浄の世界国土を感ぜしなり。我が心清浄ならざるに非ず。我が見るに娑婆世界は極めて清浄なり」と。世尊の説くは如実の語なり。世尊の目に映る娑婆世界は確かに極楽世界と等しく清浄無垢なり。衆生は内に染汚あるが故、見る世界清浄ならず。仏の心清浄なれば、見る一切皆清浄なり、これ皆仏の無垢識性なり。世尊は此の理を証すべく、足指をもって地を按じたまいし時、世尊の海印より光発し、忽ちにして娑婆世界は極楽世界と等しき荘厳清浄、殊勝無比の相を現じたり。これ仏の見る世界、仏心の現じたる世界なり。
世尊も同じく衆生と共に居住せらるるも、見る境界は衆生と異なり、正報と依報ともに同じからず。外見は衆生と等しきを示すも、実は衆生と仏とは極めて懸隔せり、心清浄ならざるが故なり。されば我ら修行するに、心をさらに清浄に修めし時、外界の事物を感知すること相対的に正しくなり、現ずる境界も転ず。これ内心の思想境界に変化生じたるが故なり。衆生は無明により、知見が顛倒し、世間に対し誤れる認知をなせば、身口意の行も清浄ならず、不浄の境界を感ぜざるを得ず。修行して心清浄になりし後は、境界環境も心に随い転じ、見る一切皆浄土なり。これ己が如来蔵の心の現じたる所なり。
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