衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月02日    水曜日     第2 回の開示 合計1150回の開示

飲食の内外の塵はどのように生滅変化するのか。

飲食という法は必ずしも意根の執着ではありません。仏が人間界に現れ飲食の活動を示され、諸大菩薩方も食事をなさいますが、彼らには飲食に対する貪着の心がなく、一切執着されません。ある衆生は意根の執着によって飲食を摂り、色声香味触法に貪着しますが、ある衆生は執着せず貪らず、仏も貪らず、菩薩も貪りません。では飲食は何のためにあるのか。それは色身を養い、色身に正常な五蘊の活動を持たせ、衆生を度化するためです。普通の人が飲食するのは一方で色身を保養するため、他方では貪着の性を現じ、自らの貪瞋痴を顕わすためです。仏菩薩が飲食される過程には貪瞋痴の煩悩がなく、これが仏と普通の衆生の違いです。

飲食は地水火風の四大種子によって構成されており、咀嚼しなくても刹那刹那に生滅変化しています。四大種子が生じ、刹那に如来蔵に滅し、生じては戻ることを繰り返し、常にこのように生滅変化しています。飲食を咀嚼して砕いても、それらは四大種子の組み合わせであり、砕かれた飲食は微細な粒子となり、最終的に最小の粒子になっても永遠に四大種子の組み合わせであり、永遠に刹那刹那に生滅変化しています。

衆生の舌根・口腔・歯が触れる飲食は外塵であり、舌識と身識が感じる飲食は内塵です。歯が外塵を噛み砕くと、身識が触れる内塵も砕け、最終的に外塵は微塵となって腸胃に入ります。身識と意識が触れる内塵も腸胃に入り、最終的に腸胃内の飲食は代謝されて無くなり、体外に排泄されると、身識と意識が触れる内塵は消滅します。同様に、舌識と意識が分別する内味塵は口腔から食道に入ると、内味塵を味わえなくなりますが、腸胃には依然として変異した外味塵と内味塵が存在します。ただ舌識では味わえず、代謝されて体外に排出されると外味塵と内味塵は全て消滅します。これらの外塵と内塵の関係はどのようなもので、いかに変化するのでしょうか。

——生如法師の開示
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