食事という法は必ずしも意根の執着ではなく、仏が人間界に示現して飲食活動を行い、諸大菩薩たちも食事をされ、彼らは飲食に対して貪着心がなく、一切執着されない。ある衆生の食事は意根の執着によって引き起こされ、かつ色声香味触法に貪着するが、ある衆生は執着も貪着もせず、仏も貪らず、菩薩も貪らない。では食事は何のためかというと、色身を養い、色身に正常な五蘊の活動を持たせて衆生を度化するためである。普通の人の食事は一方で色身を保養するためであり、他方で貪着性があり、自らの貪瞋痴を顕現している。仏菩薩が食事される過程には貪瞋痴の煩悩がなく、これが仏と普通の衆生の違いである。
飲食は地水火風の四大種子で構成されており、咀嚼して砕かなくても刹那刹那に生滅変化している。四大種子が生じ、刹那にしてまた如来蔵に滅し戻り、生じては戻ることを繰り返し、常にこのように生滅変化している。この飲食を咀嚼して砕いても、やはり四大種子で構成されており、砕かれた飲食は微細な粒子となり、最終的に最小限の微粒子になっても、永遠に四大種子の組み合わせであり、永遠に刹那刹那に生滅変化している。
衆生の舌根・口腔・歯が接触する飲食は外塵であり、舌識と身識が感じる飲食は内塵である。歯が外塵を噛み砕くと、身識が触れる内塵もまた砕け、最終的に外塵が粉末となって腸胃に入ると、身識と意識が接触する内塵も腸胃に入る。最終的に腸胃内の飲食はすべて代謝されて無くなり、排泄されて体外に出ると、身識と意識が接触する内塵は消滅する。同様に、舌識と意識が識別する内味塵は口腔内から食道に入ると、もはや内味塵を味わうことはできなくなるが、腸胃内には依然として変異した外味塵と内味塵が存在する。ただ舌識では味わえず、代謝されて体外に排出されると外味塵と内味塵はすべて消滅する。これらの外塵と内塵の関係はどのようなもので、いかに変化するのか?
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