衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月10日    木曜日     第3 回の開示 合計464回の開示

心が先に生ずるか法が先に生ずるか、心が先に滅びるか法が先に滅びるか(三)

では、心法の七つの識はどのようにして生じるのでしょうか。まず、意根は無始劫以来存在し、断絶したことがなく、如来蔵がその識の種子を送り届け、意根の存在と作用を保持しています。如来蔵がなければ意根は存在し得ません。意根は生生世世にわたって熏習された煩悩を現在世から未来世まで引き継ぎます。そのため意根に含まれる無明は極めて深く、煩悩の汚染も甚だ重いのです。四果に至って初めて意根の執着を断じ、三界への執着を滅することができ、五陰世間の一切法を滅する能力を得て無余涅槃に入ることができます。故に意根は滅すべきものであり、それは無常で虚妄の存在であって、真実不変の我ではありません。

意根もまた識心であり、識の種子は如来蔵に存在します。如来蔵が意根の識種子を送り出すことで、意根は現行して作用します。六識は後天的に生じるもので、生々世々の色身において常に如来蔵から新たに生まれます。如来蔵が六識の種子を送り出すことで、六識は現行して分別の作用を起こします。六識は後天的なものであるため、受ける熏染が軽微で断じ易いのです。六識は境界に熏染され、意根の熏染を受け、善に遇えば善となり、悪に遇えば悪となり、境界に従って転じ易い性質を持ちます。故に六識は修行によって変容し易く、変容した後は再び意根に影響を及ぼし熏習させ、意根をも変容させます。これが我々の修行の成就です。

問題に戻りましょう。心が先に滅ぶのか、法が先に滅ぶのか。心が先に生じるのか、法が先に生じるのか。以上の分析によれば、一切の法は如来蔵から生じ、如来蔵自体は生じることがありません。七つの識心は如来蔵が識種を送り出すことで生じ、八つの識心王は更に八つの識心の心所有法と和合して色法を生じます。従って問題は既に明らかです。八つの識心がなければ色法もなく、境界法も存在し得ません。心が種々の法を生じさせるのです。

では滅する場合、どちらが先に滅するのでしょうか。如来蔵は滅せず、境界は先に滅することはできません。もし境界が先に滅しても七識が依然存在するなら、誰が境界がなくなったことを知るのでしょうか。境界がなければ六識は存在できず、分別作用も起こせません。存在したとしても意味を成しません。なぜ存在できないのか。六識の発生は六根が六塵に触れた後に如来蔵が六識を生じさせるからです。境界がなければ触れず、触れなければ六識は生じません。

故に法を先に滅して心を後に滅するのではなく、心を先に滅して法を後に滅するのです。例えれば、昨日人と口論したことが今も心に残り、心が苦しんでいる場合、口論の事実は既に過去なのに、なぜ心にまだこのことが残っているのでしょうか。それは心が滅していないからです。もし心が滅し、気に留めなければ、このことを考えません。あるいは分別によって煩悩を起こす心が修行によってなくなれば、口論の最中にも心が動じず、そもそも口論自体が成立し得ません。心がなければ境界は生じないのです。

意根の観点から言えば、修行によって意根の攀縁性が滅し、五塵上の法塵に攀縁しなくなれば、六識は境界法を了別しなくなり、心なき状態に入ります。目で色を見ても見ず、耳で声を聞いても聞かず、境界は存在しないかの如く、何の作用も起こせなくなります。もし意根が滅すれば、六根・六塵・六識も全て滅し、何も存在しなくなります。その時、境界はどこにあるのでしょうか。総括すれば、心が滅すれば種々の法も滅するのです。

心が種々の法を生じ、心が滅すれば種々の法も滅します。修行とは心を修めることであり、心が変われば全てが変わるのです。

——生如法師の開示
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