問:意根の黙容一切法について、黙容とは受動的な受容と理解してよいのでしょうか。例えば六塵境界の声塵において、耳障りな音声を聞きたくなくても、声塵という因縁から離れない限り、あるいは意根の意識を他の内容に向けない限り、避けられない状況を指しますか。
答:意根が一切法を黙容するとは、意根が如来蔵に随って一切法を見、一切法を了知することを意味します。一切法には第八識の働きだけでなく、意根の働きも存在し、この二つの識の作用は極めて深細です。深細と言われる所以は、意識の禅定と智慧では二つの識の微細なる働きを観察し得ないため、意根と如来蔵の法が深遠であり、識心の作用がさらに微細であると説かれるのです。
境界法を受動的に受容するのは六識であり、意根の慣性的な了別力によって、意識がこれを制御できず、やむを得ず望まざる境界を了別することになります。意根が境界を受動的に受容する状況とは、如来蔵が成熟した業種に基づいて現行させる六塵境界及び非六塵境界を、意根が受容し了別せざるを得ないことであり、多くは逆縁や逆境に属しますが、善業の果報も含まれます。
意識が禅定に入り六塵境界を受容したくない場合でも、意根が降伏していなければ、六識は意根が関心を抱く境界、あるいは意根が慣性的に縁取する境界を絶えず了別させられます。すると意識は不断に意根を引き入れ、意識が観行思惟したい法に定めようとします。意根が意識に説得され降伏する時、意根は攀縁と了別を減じ、注視すべき六塵あるいは法塵に定まり、六識は初めて禅定に入れます。実際には意根が先に定を獲得してこそ、六識が定まる方途を得るのです。
0
+1