衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年01月02日    水曜日     第3 回の開示 合計1151回の開示

色塵の本質とは何でしょうか

眼識によって認識される色塵は全て刹那に生滅するものである。これは何を意味するかと言えば、色塵は一瞬に生じ、次の刹那に滅し、再び次の刹那に生じては滅するという連続的なプロセスによって、無数の断続的な色塵のパターンが形成されているのである。ただし、これらのパターンがあまりにも多く、連続する速度が速すぎるため、眼識は色塵が無数のパターンの連続によって形成されていることに気付かない。各パターンは静的な状態であるが、連続することで動いているように感じられる。あたかも絶えず変化しているかのように見えるのである。実際には断続的なもので、映画フィルムのようなものである。再生時にフィルムが高速で回転することで、連続したストーリーが形成され、それが映画やテレビと呼ばれるのである。

「映画」と呼ばれる所以は、電気によって投影される影であり、その中に映る全ての人物や風景、物体は影であって、実際に触れることのできる物質的な色法ではない。眼識によって捉えられる全ての色塵は影のように実体がなく、真実に似た仮の相であり、かつ静的なものであるが、動的に感じられるのである。従って、我々は目に見える全ての色法に実体性や真実の作用があると信じてはならない。影はあくまで影であって、実物ではない。これが「テレビ」と呼ばれる所以は、電気を通じて初めて継続的に現れる影を見ることができるという意味である。では、色塵が意識によって認識されるためにも「電気」を通す必要があるとするならば、この「電気」とは何を指すのであろうか。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

飲食の内外の塵はどのように生滅変化するのか。

次の記事 次の記事

心不相応行法とは

ページのトップへ戻る